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2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-1

2月28日          2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-1
                  てくてくマップ大阪14ハイキング
此の日は素晴らしいハイキング日和、知人のM村さんと二人、河内国分駅で待合せて
てくてくマップハイキング、古代~近世の柏原史跡巡り10kmをショートカットで歩いた。
此の日の私の万歩計は、21413歩で約12.8km歩いたことに・・・
コース  近鉄河内国分駅~JR柏原駅へ  私が弁当を忘れた為外食する羽目に・・・
河内国分駅(10:04集合)~松岳山古墳~国分神社~西法寺~阿弥陀寺~不動明王
~田辺池~田辺廃寺跡・春日神社~初吉稲荷神社~原川コミュニティー道~国分駅
前餃子の王将(昼食)~国豊橋から大和川~大和川治水記念公園~黒田神社~平野
川・旧三田家・寺田家~柏原神社~浜地蔵~堅下オガタ通り商店街~JR柏原駅
   ・・・登り坂のきつい玉手山古墳、小松山子船場をパスして歩いた
JR高井田駅
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白坂神社・・・宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
宿奈川田神社は、大阪府柏原市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。地元で
は通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ばれ、地図や看板でもそのように表記されてる。
祭神は、宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田)とともに、当地を拠
点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社となっており、
延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列している。
中世には「白坂大明神」と称していた。一説には、現在二宮神社(柏原市安堂町)。大正
時代に2社を合祀して現在地に遷座)のある地が「字白坂」であることから、元の宿奈川
田神社の鎮座地であるという。
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国豊橋から大和川を撮る
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近鉄河内国分駅で合流、改札印を貰ってスタート
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河内国分駅~松岳山古墳へ向かう
西町地蔵尊
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宮本地蔵
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国分神社
国分神社は鎌倉時代御宇多天皇の朝に創建されました。御祭神は大国主命(おおく
にぬしのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、飛鳥大神(あすかおおかみ)の
三神。境内の山頂は国指定史跡の松岳山古墳(まつおかやまこふん)で。これより出
土した船氏王後首墓誌は、我国最古のもので国宝に指定され東京の個人(三井記
念美術館所蔵)。
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※銅製船氏王後墓誌(どうせいふなしおうごぼし)
墓誌は、松岳山古墳群から出土したと伝えられていますが、出土の詳しい場所や時期
など経緯は不明です。縦約30cm、横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い短冊形の
銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻まれています。668年につくら
れたと考えられており、わが国最古の墓誌で す。また、文字使いや内容などから学問
的にも貴重な資料です。

松岳山古墳
国分神社の奥に広がる丘陵上にある全長約130mの前方後円墳です。この古墳には、
円筒埴輪や巨大な鰭付楕円筒埴輪(ひ れつきだえんとうはにわ)が立てられていまし
た。後円部墳頂には組合式石棺(6枚の石板を組み合せた棺)が露出しています。石
棺を覆う竪穴式石室の原状は 不明ですが、周囲に板石が大量に散乱する現状から
石室は墳丘上に積石塚のように築かれていたと推定されます。石棺の南北には大板
石が立てられています。南 の立石は高さ2.3m、幅1.4m、北の立石は高さが1.8m、
幅が1.4mで南立石には1箇所、北立石には2箇所の円孔があります。立石の用途や
何のた めの孔なのかは不明(謎)です。古墳からは銅鏡、装飾品、武器、農工具、土
器、埴輪など様々な遺物の出土が知られています。
松岳山古墳を見学の際には、隣接する国分神社社務所にお声をかける様にと注意
書きが有ります。
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国分神社
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国分神社御旅所
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西法寺へ向かう
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西法寺・・・浄土真宗本願寺派 塩出山 西法寺
大阪府 柏原市に位置する西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代
蓮如上人の 教化により浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
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阿弥陀寺へ向かう
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阿弥陀寺
綺麗なトイレが有り、助かりました。
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不動明王
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田辺池
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田辺廃寺跡・春日神社
田辺廃寺跡
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふ
ひと)氏が建てた氏寺と言われている。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、
南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。東塔の基壇
はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み
上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡
は春日神社の境内にあります。白鳳時代から中世までの間法灯を伝えるが、終始そ
の間同氏を背景に盛衰した寺院と考えられる。

春日神社(かすがじんじゃ)
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります。 田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠
地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われている。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽
藍配置であることが判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げた
セン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三
重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土
遺物も境内の収蔵庫に展示されています。
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此の続きは、
2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、初吉稲荷神社~
初吉稲荷神社(はつよしいなりしゃ)
由緒等の詳しい事は分かりませんが、鎮座地は古墳時代の横穴式石室古墳の跡と推定
されているそうで、大正時代までは巨石を組んだ石室の中にまつられていたそうです。朱
塗りの鳥居は二十一基あるそうで、その奥に小さなお社があります。一対の狛狐と燈籠が
ありますが、燈籠の方には昭和十八年(1943)の年号があります。お社の裏には「初吉
大明神」のお塚があり、狛狐の傍らに風化の激しい狛狐が一基、あと顔の部分が欠損して
いる狸の石像がありました。お社まで行きますと周囲より小高くなっていますので、ここが
古墳だった事が良く分かります。
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原川コミュニティー道へ向かう
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原川コミュニティー道
原川沿いの遊歩道
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国分駅前餃子の王将(昼食)
国豊橋を渡る、大和川を撮る
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大和川治水記念公園
「大和川治水記念公園」の場所は築留と言われ、1704年に北に流れていた大和川を、
堤を築いてせき止め、西へ流れを変えた所だと言う事です。中甚兵衛(1639~1730)
は「河内」といわれるほど氾濫の多い大和川をつけかえる運動のリーダーでした。
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※中 甚兵衛(なか じんべえ)
中 甚兵衛は、寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸
時代初期の農民。河内国河内郡今米村(現・大阪府東大阪市今米)の庄屋。次男と
して生まれた。 大和川の付け替え工事に奔走した人物であり、周辺の芝村の曽根三
郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えや
治水計画を50年近くにわたって嘆願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る
幕臣に交じって、付け替え工事を指揮した。
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柏原黒田神社へ向かう
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黒田神社・・・柏原黒田神社
昭和44年に藤井寺市の「北条黒田神社」より分社。過去は別名を塩殿神社(ショウデン
さん)といい、海運・交通安全の神として塩土老翁を祀っていた。「黒田」由来は、農民た
ちが耕している田畑が、黒々と肥えてほしい、と願ったことからだという。
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平野川・旧三田家・寺田家
柏原舟ふなだまり跡地
柏原は竜田越奈良街道の要衝で、石川と大和川が合流した直後の下流に位置し、農
業地・商業地として栄えたが、度々水害にも襲われた。ことに元和6年(1620)と寛永
10年(1633)の大水害で柏原地域は壊滅的な被害を受けた。当時の代官末吉孫左衛
門長方は、大坂・京橋と柏原の間に物資運搬船「柏原舟」を往来させ、その売上で地
域復興を企てた。上流の「国分舟」と合わせて明治になって鉄道が開通するまで大い
に栄えた。
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三田家住宅(さんだけじゅうたく)
三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、
柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田
家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)
に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原
船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の
大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで
遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示され
るとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類
も合わせて重要文化財に指定されています。
※三田家住宅は一般の住宅で、現在もお住まいのため見学はできません。
寛永17年(1640)に今町に移り住んだ三田家は、明和3年(1766)から5年にかけて
建物の普請を行いました。これが現存する三田家住宅です。明和5年(1768)の竣
工から今年(平成30年・2018)で250年となります。三田家住宅は、昭和44年(196
9)に国の重要文化財に指定されています。
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寺田家と柏原船
寺田家は「北条屋」の屋号をもち、志紀郡北条村(現在の藤井寺市北條町)から今町
に移り住んだようですが、くわしいことはわかっていません。寺田家の初代七郎兵衛
の没年が寛文8年(1668)であることがわかっているので、17世紀中ごろではないか
と考えられています。その後明治に至るまで、寺田家の当主は代々七郎兵衛を名乗
っています。柏原船の営業に大坂組が参加したのが寛永17年(1640)のことで、この
ときには寺田家の名が見えないことから、その直後に今町に移ってきたようです。しか
し、当初は柏原船の営業には参加していませんでした。
宝永元年(1704)の大和川付け替え後に、柏原村の東にある川跡には市村新田が開
かれました。新田の開発には七つの組に分かれた23人が共同で参加し、今町からも
「四人組」として吉田与治兵衛、高島平右衛門、三田七左衛門と寺田七郎兵衛が名を
連ねています。寺田家は市村新田の経営に深く関わり、有力地主らとともに輪番制で
市村新田の庄屋を努めていました。そしてのちには、寺田家のみが庄屋を務めること
になりました。明治になると、堺県から市村新田の戸長にも任命されています。
また、三田家とともに柏原船の営業にも中心となって参加し、肥料商を営んで手広く商
売を行っていました。寺田家が最初に柏原船の船持ちになったのは、享保元年(1716)
のことでした。このとき2艘の船持ちとなり、その後寛政元年には9艘、そして弘化元年
(1844)以降明治まで14艘を所有していました。三田家の船数は、寛永17年(1640)に
2艘、寛政元年(1789)に16艘、文政4年(1821)から10年まで21艘で、文政11年(18
28)から明治まで寺田家と同数の14艘でした。柏原船の総数は70艘なので、幕末には
三田家と寺田家で40%の船を所有していたことになります。もっとも、このころには船は
半分程度しか運航していませんでした。
寺田家には、市村新田や柏原船に関する史料が多数残されております。寺田家住宅も
現在お住まいのため、普段は公開されておりません。
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柏原神社
創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せしを、明治十三年信徒の協議に依りて
当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、
中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀するとともに村社に列し、更に志紀村の稲
荷神社「倉稻魂命」を合祀。
柏原黒田神社の北に鎮座、やはり下町風の風景の中で、地域の氏神さんとして慕われ
ているようです。
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浜地蔵
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堅下オガタ通り商店街
ワイングラスを逆さにした街灯が可愛い・・・
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JR柏原駅
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王寺駅へ戻って
バス停で・・・
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2月20日の飲み会&奈良の史跡&公園を歩く-1

2月26日        2月20日の飲み会&奈良の史跡&公園を歩く-1
                   昼飲み会ハイキング 8㎞
此の日は知人のS藤さん・M吉さん・K場さんと4名で昼飲み会ハイキングに奈良公園
を選んで、近鉄奈良駅であみま倶楽部手帳に改札印スタンプを貰ってスタートした・・・
此の日の私の万歩計は、21576歩で約12.9km歩いたことに・・・
コースは  近鉄奈良駅東改札前に集合
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街~額塚~南円堂~中金堂~五重塔~
春日神社一の鳥居~影向の松~浮見堂~片岡梅林・円窓亭・浅茅が原~浮雲園地~
春日野園地~水谷茶屋~若草山山麓~手向け山八幡宮・校倉造~三月堂・校倉造経
庫~※四月堂~二月堂~若狭井~万博古河館七重搭双輪レプリカ~東大寺・鏡池・東
大寺ミュージアム・南大門~県庁前(昼食)・県庁屋上展望台~奈良公園~氷室神社~
韓国神社・林神社(饅頭神社)~JR奈良駅前観光案内所
JR奈良駅(13:17)  天王寺駅(13:50) 湯処・あべの梅
☆2月20日・昼飲み会 15:00~ 会費@2600円 参加メンバー6名
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街
額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山延
暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興福寺
にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来たそう
です。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態なのに樹
木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、とある僧の霊
夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水に縁のあるもので
あるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということになり、山号額を取り外
すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収まり、その発端となった山号額
は茶臼山に埋められたという逸話です。
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※興福寺の南大門
興福寺の正面玄関にあたる南大門は、創建後、中金堂とともに6度の焼失と再建を繰り
返してきたが、1717年(享保2年)に焼失した後は再建されなかった。
南大門は重層建築だったとされ、その規模は平城宮の朱雀門級だったという。復元され
た基壇は、高さ約1.5メートル、東西約30.8メートル、南北約16.6メートル。
基壇上の平面部には、南大門の礎石跡や金剛力士像(仁王像)が立っていたとみられ
る方形の基礎跡も再現されている。

南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4
m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古
様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、
四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
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中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
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五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
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春日神社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもの
である。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社
と興福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。
3月の春日祭や12月の春日若宮おん祭の際には大きな榊が立てられています。
第60次式年造替の事始めに大規模な修理が施されました。
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影向の松(ようごうのまつ)
影向の松は、奈良県奈良市の春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育
しているクロマツである。延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木で
あったが、1995年(平成7年)に枯れたため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若
木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓
抄によると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡
板に描かれている老松の絵のルーツとされている。
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浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
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片岡梅林
梅の木が約250本ほど植えられています。中に奈良地方気象台の植物季節観測用
(ウメ)の標本木も有るそうです。
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円窓亭(重要文化財)
円形の窓が特徴の円窓亭(重要文化財)。元は春日大社の経蔵が改造、移築された。
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片岡梅林・浅茅が原地
浅茅ヶ原園地に「片岡梅林」というところが有ります。
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浮雲園地へ向かう
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浮雲園地
奈良公園の中心部にあります。大仏殿交差点と奈良春日野国際フォーラム甍の間
をゆったりと歩ける園路があります。イベントにも利用されます。
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春日野園地
奈良公園の中で最も広い多目的広場です。東に若草山、北西に東大寺大仏殿、西に
東大寺南大門を望むぜいたくな空間です。イベントにも利用されます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる
水谷川の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗
として改装し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、
秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのに
ふさわしい行事です。
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手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部
の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真
が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
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宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似
した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
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此の続きは、
2月20日の飲み会&奈良の史跡&奈良公園を歩く-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
           https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)~
三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける
「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置
にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈
良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良
時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大
規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの
貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ
なお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されていましたが、
鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期になると現在の位置
に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有しています。その後はしばらく
手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、再び東大寺に帰属する建
物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど南側の位置には、手向山八幡
宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じような建築様式で、やはり奈良時代頃に
創建されたものと考えられています。

三月堂
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※四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして有
名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四月
堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安
3年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物は
江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われたと
も推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立像」
が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された「東大寺
ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音菩薩立像が
招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈良市山間部
にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるようになった存在とさ
れています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されている「普賢菩薩」さ
まに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時代によって本尊が比
較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているのです。
知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的な存在
感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過ごしてしま
う場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに常駐しておられ
る上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。
三月堂(法華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会とい
い、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物
に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、
中世の雰囲気を色濃く残している。
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若狭井
閼伽井屋(重要文化財) - 霊水の湧く「若狭井」の覆屋。切妻造の簡素な建物で鎌倉
時代の建立。榊と注連縄で厳重に結界されており、一般人の立ち入りはできない。
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東大寺大仏殿へ向う
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれ
る高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・東大寺の
大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、
当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめら
れていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有る
この相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
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東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年に
大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東塔」
と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は1180年の平
氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消失した。
「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
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東大寺ミュージアム
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南大門
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県庁へ向かう
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奈良公園~氷室神社
氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。
和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩
根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始され
た。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月
30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平
安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷さ
れ、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱
印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治
以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
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県庁前(昼食)・県庁屋上展望台
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漢國神社(かんごうじんじゃ)・林神社(饅頭神社)
漢國神社は、奈良県奈良市にある神社である。式内小社(論社)、旧社格は県社。推古
天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が園神を
祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称し
ていたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝
える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の
守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾して
いる。治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大
僧正の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より
法蓮村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。
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境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国
から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄
因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行わ
れ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも
無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点
として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。
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JR奈良駅前観光案内所
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋へ向かう
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甘太郎
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2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1

2月14日          2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1
                  近鉄駅フリーハイキング 6㎞
此の日は知人のY田さん・M吉さん・O村さん・I 田さんと5名でコースを大半飛ばして酒
蔵へ何とか時間内に辿り着きました。此の日の私の万歩計は22775歩で約16.8kmに・・
コース   昼飯を食べる時間も取れず駆け足で酒蔵へ向かうという強硬軍となった
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~三吉石塚古墳~新木山古墳~竹取公
園~馬見丘陵公園・ナガレ山古墳・北エリア~長龍酒造・長龍・試飲・甘酒・抽選会・解散
~箸尾駅への予定が酒蔵が10時半~12時半と指定されておりコースを辿れなかった・・・
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~直接竹取り公園へ入り三吉石塚古墳~
新木山古墳をパスして~馬見丘陵公園・梅林を通り、北エリアをパスして直接長龍酒造へ
向かいなんとか12時20分に到着、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で馬見丘陵公園
北エリアへ行き昼食、北エリア~平城宮遷都1300年ロードを通り池部駅へ、池部駅で皆
さんと別れて1人で昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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五位堂駅(北口ロータリー11時迄)
かつらぎの道を牧野古墳へ向かう

かつらぎの道
五位堂駅北側から住宅地の中央に約2kmにわたって続く歩行者・自転車専用道。
途中大型ショッピングセンターのエコール・マミや畿央大学横などを通り、利便性抜
群。北詰めから東へ向かうと馬見丘陵公園も近く、ハイキングコースとしても手頃。
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牧野古墳
牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の
円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。
本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の
中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃か
ら7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円
墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円
墳祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[ではなくなっ
た。埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1mの
横穴式石室である。この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模
である。本古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に
近い支配者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されて
いる。
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※三吉石塚古墳~新木山古墳をパス
新木山古墳(全長200m、陵墓参考地)の外提西側付近に作られた帆立貝式古墳。
周囲に馬蹄型の周濠が巡っている。後円部は2段に作られ、1段目には円筒埴輪列
に朝顔形埴輪を置いた列が巡り、墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪
が置かれていた。 (復元されているのは円筒、朝顔形のみ)
墳丘と周濠内側に10~30cmの葺石が施されており、後円部では葺石が一列に並
べられている箇所があり、作業単位を示す基準であったと考えられる。後円部の葺
石は二上山麓の輝石安山岩が、前方部の葺石は当麻町西に分布する黒雲母花崗
岩が使われている。 前方部南東隅には他に例を見ない張り出し部が設けられ、外
提部に埴輪列が巡り、周濠部の幅も極端に狭いことから、墓道として作られたと考え
られる。埋葬施設は未調査であるが、5世紀後半の築造と考えられる。

直接竹取り公園へ入り
竹取公園
奈良県北葛城郡広陵町にある入園無料の公園施設です。 公園内には散策 路や木
製の大型遊具、そり遊びのできる施設もあり、小さなお子様連れの方からお 年寄り
まで楽しくすごせる公園です。
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馬見丘陵公園・梅林を通り公園外へ
北エリアをパスして直接長龍酒造へ向かう
馬見丘陵公園
県営馬見丘陵公園は、広陵町と河合町の両町にまたがる、わが国でも有数の古墳群
と 、良好な自然環境が残された地域にあります。 この歴史と文化の遺産やすばらしい
自然 環境を、県民の憩いの空間として、奈良公園に次いで県下2番目 の広域公園と
して広く活用してもらうことを目的に整備されました。
梅林
梅林の梅もそこそこに
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公道へ出て直接酒蔵へ向かう
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なんとか12時20分に到着
長龍酒造到着大勢の人が列を作って
長龍酒造
昇道無窮極(しょうどうむきゅうきょく)この言葉を胸に日々精進しています。
社名 長龍酒造株式会社  創業 1923年(大正12年)
1923年 飯田弟一、生家の飯田酒造場(1868年創業 現在の奈良県天理市㈱飯田
本店)より独立し、八尾に酒の小売店開業。間口二間の店に店員一人、生家の清酒
「長龍」120本を元手とする。
1941年 戦時体制により酒類販売を中断。飯田木工株式会社設立。 樽・木製ドラム・
バケツ等の製造販売を行う。
1963年 長龍酒造株式会社設立。八尾工場を竣工して共同びん詰場の免許を取得、
原酒の貯蔵と「長龍」のびん詰作業を始める。
1964年 画期的新商品、樽酒のびん詰「吉野杉の樽酒」の開発に成功。 「吉野杉の
樽酒」の販路を全国に拡げる。1968年 「慶雲長龍」発売
1971年 長龍酒造株式会社第二貯蔵庫竣工。炎暑の夏も高品質を保つ完璧な温度
管理を実現。 1979年 広陵酒造株式会社 設立 広陵蔵で醸造開始
試飲・甘酒振舞い・抽選会
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此の続きは、
2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2 として
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続きは、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で
馬見丘陵公園北エリアへ向かう~
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馬見丘陵公園北エリアへ行き昼食
北エリア~平城遷都1300年の道を通り池部駅へ
(710年~2009年の歴史的な出来事を年表にして道路上にマッピングされている)
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河合町役場庭園(旧豆山荘)
河合町役場の庭園は、大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏が、馬見丘陵の大
自然を取り入れ、広大な邸宅と庭園を構築されました。そして「豆山荘」と名づけら
れたことに始まります。
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松
氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。
吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に
応え、昭和23年、豆山荘を河合村に譲られました。
その後、河合町発足とともにここに庁舎を新築し、現在に至ります。馬見丘陵の自然
を生かして造られているため、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生す
る自然木です。
由緒あるこの庭園を憩いの空間として、ぜひ足を運んでください。庭園は近鉄池部駅
すぐの役場入口左にあり、役場休業日も自由に散策することができます。
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池部駅
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池部駅で皆さんと別れて1人で
昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
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河合町とお別れして
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2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-1

2月12日       2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-1
                  歩こう会特別企画 歩程約9㎞
今年2回目の歩こう会は、歩こう会特別企画で田原本町の史跡巡り、2018年4月リニューアル
オープンした弥生時代の遺跡として有名な、唐古・鍵遺跡史跡公園と道の駅「レスティ唐古・鍵」
や1月の孝霊天皇陵繋がりで桃太郎伝説発祥地の孝霊神社(廬戸神社)や法楽寺(孝霊天皇黒
田廬戸宮跡に建立)を巡る。此の日の私の万歩計は、25635歩で約飽く18.9km歩いたことに
コースは  孝霊神社境内に10時集合     参加者50名(新入会員1名含む)でスタート
黒田駅~徒歩3分~孝霊神社(集合・スタート)~法楽寺~黒田大塚古墳(トイレ休憩)~鍵の蛇
巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩&集合写真撮影)~池坐神社・千万院~ながめの丘・展
望台(昼食休憩)~唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)~道の駅「レスティ唐古・鍵」~石
見駅へ案内して無事終了した、天気にも恵まれて楽しいハイキングだった。
志都美駅
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王寺駅~新王寺駅
雪丸像
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近鉄田原本線・黒田駅
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孝霊神社(集合・スタート)
孝霊神社(廬戸神社)
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法楽寺へ向かう
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法楽寺、境内の梅がチラホラ・・・
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黒田大塚古墳(トイレ休憩)
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鍵の蛇巻~
唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩&集合写真撮影)
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池坐神社・千万院へ向かう
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池坐神社、此処も梅が・・・
延喜式神名帳に、『大和国城下郡 池坐朝霧黄幡比売神社 大 月次相嘗新嘗』とある
式内社。社名は“イケニマス アサキリ キハタヒメ”と読むが、神名帳古写本の一部(九条
家本・金剛寺本)には“横幡比売”とあり、“ヨコハタヒメ”と読ませている。社頭の鳥居神額
には「池坐神社」とある。近鉄橿原線・田原本駅の北東約2km、駅東の国道24号線・鍵
交差点から東へ約1km行った北側、初瀬川(大和川)左岸に鎮座する。
延喜式神明帳に『池坐朝霧黄幡比売神社 大月次相嘗新嘗』と見える。社名祭神名の
示す如く機織(幡)の神であって、推古帝24年(615)聖徳太子草創の法喜寺伽藍を賜っ
た秦氏が、その祖神守り神として崇敬した古社である。また法貴寺記録によれば、天慶
9年(946)9月19日に北野天満宮より菅原道真公を勧請した由がみえる。
古来、法貴寺天神又は天満宮として遍く知られており、法喜寺(長谷川氏の氏寺)の鎮
守神として信仰をあつめていた」とある。
これによれば、当社は古代の豪族・秦氏が7世記初頭の頃、氏寺・法貴寺(法起寺とも
いう)とともに創建したともとれるが、それを証する史料はない。
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千万院
明治初年廃寺となった法貴寺の塔頭である。法貴寺はもと法起寺とも表記し、聖徳太子
の開いた寺院と伝える。法貴寺本坊実相院の縁起に依れば第33代崇神天皇の御代 新
羅王から贈られた薬師三尊像を法起寺に安置したという。この薬師如来像は特に霊験あ
らたかであるとし、容易に拝むことができぬよう秦河勝に命じたという。
法起寺の名は仏法を起こすの意である。古くは実相院、角之院、池之坊、弥陀院、公文坊、
千万院、長栄坊、宝蔵坊など13の支院を持つ大寺であった。山門と鐘楼。平安時代の不
動明王立像、室町時代の薬師如来坐像、鎌倉時代の薬師如来坐像、南北朝時代の聖徳
太子、室町時代の観音菩薩立像などを有する。法貴寺不動明王立像は高さ約79cm、
時期は平安期のもので国指定重要文化財。
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此の続きは、
2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-2  として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、ながめの丘へ向かう~
ながめの丘へ向う
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ながめの丘・展望台(昼食休憩)
展望台があり、唐古・鍵遺跡の楼閣や、大和川及び大和平野を取り巻く山並みが
一望できる初瀬川(大和川)沿いにある公園。
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展望台から
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唐古池へ向かう
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唐古池と楼閣
遺跡で発見された土器に描かれていた建物「楼閣」を、江戸時代に築造された農業用
溜池の南西隅に復元。遺跡の、また町のシンボルタワーとなっています。
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唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
国史跡の指定を受けた唐古・鍵遺跡では、地下の遺構を恒久的に保存するとともに、史
跡公園として活用を図るため、平成21年度からは本格的な工事に着手し、平成30年4月
17日にオープンしました。
この公園は、弥生時代の遺跡という特色を生かし、周囲の田園風景を含めた弥生時代
の「風景」の再現と、かつてこの場で行われていたであろう「生活」を追体験できる場とな
ることを目指しています。
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道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・奈良交通HPより
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざま
なイベントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の
特産品を多数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売
するとともに、各種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の
「オリジナルドッグサンド」をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
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石見駅へ
石見駅~田原本駅・西田原本駅~新王寺駅・王寺駅~信貴山下駅
信貴山下駅前
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大和川を王寺へ渡る
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信貴山
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久度神社・・・王寺町HPより
久度の氏神で、誉田別命・天児屋根命・底筒男命・久度神を祀っています。『続日本紀』
の延暦2年(783)12月の記事に「大和国平群郡久度神」と見えることから、すでにこのこ
ろからあった神社であることがわかります。久度神は、「久度」という言葉が竈を意味する
クドに通じるため竈神ともいわれ、平安京に遷都するさいに現京都市北区の平野神社に
遷されたと考えられています。境内には南北朝時代の暦応元年(1338)12月に奉納され
た石灯籠があり、文明8年(1476)8月の箱書をもつ春日曼荼羅が奈良国立博物館に寄託
されています。
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王寺の銭湯・さくら湯
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王寺駅へ向かう
王寺町マンホール蓋
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2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-1

2月8日      2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-1
               近鉄ハイキング 歩程約8km 
此の日は知人のK場さん・M吉さんと3名で近鉄酒蔵みてある記ハイキング久保本家酒造
に参加、久保本家酒造へは中々タイミングが合わず今回が初めての参加となった・・・
道の駅からの帰りはバス、此の日の私の万歩計は、19995歩で約14.7kmあるいたことに。
コースは
榛原駅(南出口階段下)~宇田川沿い篠楽河川公園~平尾水分神社鳥居~うだアニマル
パーク~宇陀松山地区~慶恩寺~松山西口関門(黒門)~恵比寿神社~春日神社~久
保本家酒造・試飲・甘酒ふるまい~道の駅宇陀路大宇陀~榛原駅迄奈良交通バス利用
志都美駅
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近鉄桜井駅ホーム
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榛原駅(南出口階段下)~宇田川沿いを歩く
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篠楽河川公園
猟路の桜(かりじのさくら)
飛鳥藤原京の古、宮廷遊猟の地であった宇陀の山野。古典的に由緒あるこの地を後世
に伝えんと記念の桜を植樹し、「猟路の桜」と名づけられたいうのが所以の桜並木。
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宇田川沿いを歩く
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平尾水分神社の朱い鳥居
宇陀には、このほか宇太水分神社(下社) 宇太水分神社(中社) 惣社宇太水分神社(上社)
とあります。
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月1
8日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが行
われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われま
す。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/初
乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がります。
早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるようになったそ
うです。
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※宇太水分神社
宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市菟田野古市場にある神社。大和の
東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分
神社、葛木水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市
榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたの
かみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中
社」とも称する。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り
替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。

宇田川沿いを歩く
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カザグルマ自生地「宇陀市大宇陀小附」
カザグルマ草
キンポウゲ科の蔓性植物で、自生地の北限として昭和23年に天然記念物指定。 薄紫
色で八弁の大型で優美な花を咲かせ、甘い香りを漂わせる。
現在、国が保護増殖事業に着手し、保存地域内には入ることができない。 外柵からの見
学となり、なかなか確認し難い。
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宇陀アニマルパーク
宇陀市大宇陀の県畜産技術センターでは60年以上にわたり、牛・豚・鶏などの試験研究
を行い、様々な成果を上げてきておりますが、平成13年4月に大家畜(牛)部門が宇陀郡
御杖村の「みつえ高原牧場」に移転したことによる敷地の有効活用として、動物とのふれ
あいを通して次代を担う子どもたちの健全な育成を目指すとともに、県内外のみなさんに
レクリェーションの場を提供し、社会全体の発展に寄与することを目指し、うだ・アニマル
パークを設置することにしました。
うだ・アニマルパークは、人と動物とのふれあいを通して、動物を学び、動物から学び、そ
して動物のために学ぶ「いのちの教育」を行い、広く県民に動物全般に対する理解を促
進するとともに動物に対する愛護の思想について、普及啓発を図り豊かな社会づくりに
寄与することを目的とした施設です。
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此の続きは、
2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-2 として
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          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、宇陀松山地区~
宇陀松山地区
松山(まつやま)は奈良県宇陀市大宇陀地域にある広域地名である。旧宇陀郡松山町。
宇陀松山とも呼ばれる。江戸時代、宇陀松山藩の陣屋町として栄え、現在もその風情を
残しており、一部が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
宇陀松山城の西側の地区は古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場であった。現在の
街区は戦国時代に国人領主秋山氏により築かれた秋山城の城下町を起源とし、その
後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成され、地名が阿貴町から松
山町に改められたとされる。関ヶ原の戦以降は織田信雄以後4代の支配を経て1694年
からは江戸幕府の天領となり、商業地として栄え、明治時代になっても宇陀郡役所や
裁判所がおかれるなど地域の中心として発展し、昭和40年代まで賑わったという歴史
をもつ。当時、近世初頭の敷地割と江戸時代から明治時代の商家が数多く残る中心街
は、宇陀市の都市計画によって定められた伝統的建造物群保存地区であり、宇陀松山
伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され
ている。

慶恩寺
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに
始まる。その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みと
して建立された。鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
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松山西口関門(黒門)
福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和
6年に国の史跡に指定された。宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には
枡形がある。町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。
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恵比寿神社
愛宕神社、恵毘須神社、愛宕寺の神仏混合社。愛宕神社は、城下町の火災防止の
ため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわれる。恵毘寿神社は町内の茶町
から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行われる。
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秋山城跡・春日神社
秋山城跡のみで城址へは登らなかったが・・・
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正
13年に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元
和元年に改易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡
に指定された。
春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務
所の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝え
る佐々岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
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和菓子屋「松月堂」のきみごろも
きみごろもは奈良県宇陀市の銘菓である。
卵白を泡立てたメレンゲに砂糖・蜂蜜・寒天を加えて型に入れて固め、サイコロ状
に切ったのち、卵黄で衣をまぶして焼き色をつけたもの。奈良県宇陀市の和菓子
屋「松月堂」の初代が考案し、現在では宇陀市内の複数の和菓子屋で製造・販売
されている。宇陀市以外では、奈良市の「近鉄百貨店奈良店」(毎週水曜日、松月
堂のきみごろもを販売)や東京都中央区の「奈良まほろば館」(週に1度、松月堂の
きみごろもを入荷)にて購入することが可能。柔らかく、ふんわりとした食感が特徴
で、和菓子とも洋菓子ともつかない不思議な味わいを持つ銘菓である。
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久保本家酒造
久保本家酒造のある大宇陀は『万葉集』の歌人にも愛された風光明媚なところとして
も知られております。ここは飛鳥の都からも近く、『古事記』や『日本書紀』の神話にも
登場する日本発祥の地であります。また中世には織田信長の子孫が所領する城下町
でもありました。その後近世の頃にも熊野古道や伊勢街道につながる宿場町として人
や物が行き交いとても賑わっておりました。
このころ初代久保勘兵衛が吉野の奥山より出でて、江戸元禄時代に現在の場所で酒
造りを始めました。大宇陀という当時の先進の地で一旗揚げてやろうという志があった
のだと思います。それ以来久保家は300年余り酒造を続けてまいりました。
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道の駅「宇陀路大宇陀」→榛原駅→五位堂駅
五位堂駅
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1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-1

2月4日        1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-1
                    歴史探訪の会の3月コース下見
此の日は、素晴らしいハイキング日和で知人のM吉さん・K場さんと3名で田原本町のボラン
ティアガイドさんと事前に申し込んんで有ったコースを巡った・・・
コースは
田原本駅(観光ステーション)~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷
大神)~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺めの丘・展望台~唐子・鍵遺跡史
跡公園・情報展示館~道の駅(レスティー唐古・鍵)~今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)~安養
寺~首切地蔵尊~八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)~豊雛稲荷~田原本駅  
此の日の私の万歩計は、20441歩で約15.1km歩いたことに・・・

本番のコースは、雨天中止 田原本駅東口広場(集合・10時スタート)
田原本駅東口広場~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷大神)~
唐古・鍵考古学ミュージアムへ1.4km~唐子・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺め
の丘へ1.4km~眺めの丘(昼食)~唐古・鍵遺跡史跡公園・情報展示館~道の駅へ1.2km
~道の駅(レスティー唐古・鍵)~石見駅へ1.5km・・・・・合計 5.5km →6kmコース
志都美駅9:14  王寺9:21  新王寺駅9:35 西田原本駅9:54  田原本駅東口広場9:56
      8:14     8:21        8:35        8:54              8:56 
志都美駅
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西田原本駅
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田原本駅、東改札前広場
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浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が
賤ヶ岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七
本槍」と呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村
を与えられ5千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはな
かった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の
真宗大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ
立ち退かせられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄
土宗本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立
した。領主は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人
に寄進した。住職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表
塀の五本の筋)が使用される。
その後、本願寺御坊として、72か寺の末寺や配下を有した。大和には5か所の御坊が
存在しており、今井・称念寺、御所・円照寺、高田・専立寺、畝傍・信光寺と併せて大
和五ヶ所御坊と称せられた。御坊は、本願寺と地方寺院及び地域を取り次ぐ役割を担
うための格式と権威を有し、中本山としての機能を果たしていた。
寛延2年(1749年)、円城寺は寺号を浄照寺に改める。
明治10年 (1877年)、明治天皇行幸の行在所となる。
明治23年 (1890年)、昭憲皇太后行啓、宿泊所となる。
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本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本
領主であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄
土真宗教行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立
した。 本堂は度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物
である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる
平安時代中期の十一面観音立像が安置されている。
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平野氏陣屋跡へ向かう
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田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年
(1895)には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建
てられ、木造平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が
ついている。玄関妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭
和初期当時の面影を留めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」
のロケ地としても使用された。
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平野氏陣屋跡
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。
寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。

平野氏陣屋跡・稲荷大神
通称「屋敷のお稲荷さん」と呼ばれ、境内社に大神神社も祀り、社前に田原本藩最後
の藩主平野長裕が明治元年(1868)寄進の石燈篭が建つ。
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唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
何?
ただのといの水受けらしい・・・
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学芸員さんの説明を聞いた・・・
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池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
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千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの
法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮
(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつ
きで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、
神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
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眺めの丘・展望台
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展望台から・・・
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昼食
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此の続きは、
1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-2 として
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続きは、唐古池~
唐古池
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唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈
良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクター
ルは近畿地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環
濠」が巡っていました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期
(1,700年前)までの約600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・
石器・木器が出土し、その成果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3
次調査以来継続的な調査が行われ、多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など
重要な成果が相次ぎました。その重要性から、1999年1月27日、国の史跡に指定さ
れました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から
100年以上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池
の発掘調査(第1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生
時代研究の確固たる基礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田
原本町教育委員会によって調査が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明
らかとなりました。また楼閣を描いた絵画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建
物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺跡は、弥生文化を考える上で重要な位
置を占めています。
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遺構展示館
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道の駅(レスティー唐古・鍵)・・・田原本町HPより
唐古・鍵遺跡史跡公園と隣接し、さまざまな観光サービスを提供する交流施設「道の
駅」が、平成30年4月20日に誕生しました。駐車場から史跡公園へと向かう主要動線
には、唐古・鍵遺跡や町及び県中南和地域の観光案内と地場産品の買い物・食事を
提供する「此処でこそのもてなしの場」があり、史跡公園への期待感を高める施設と
なります。
1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを
販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメイ
ンに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内
で焼き上げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生で
お召し上がりいただくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
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今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)
今里の杵築神社と鍵の八坂神社で、蛇巻きの行事がおこなわれます。
今里の杵築神社で、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦藁を束ねて蛇を作り、撚り
をかけた長い綱に、麦藁を束ね「せーの」の掛け声とともに蛇体を編み上げていく。全
長18mの蛇が出来上がると、ここで一旦休息となり、行事参加者が拝殿でお神酒を飲
む間、藁の先にくくられた「わかめの味噌煮」が村の参拝者に配られる。あまれば、観
光客にもおすそ分けがある。甘く美味。
その後、中学生(本来は数えで15から17歳)の男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめ
でとう」といいながら練り歩く。広い道に至れば、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。子供達の笑い声が上がり、実に楽しい。蛇は再び杵築神社に戻り、神社
南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。今里では、蛇の巻き付けられた大樹の根
元の祠に、絵馬や農具のミニチュアが祭られることから、田植え時の降雨を祈願したも
のと考えられる。蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午
の節句にちなんだ行事である。
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※鍵の蛇は、北中学校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、
胴体が樹に吊るされる。

寺川
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安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
木造阿弥陀如来立像は、大字八尾の安養寺に安置されている。像は、玉眼・粉溜塗
の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったものである。快慶が好
んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映っている。これは玉
眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認められるという。
足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後世に
書き改められたものと考えられている。
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首切地蔵尊
八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられてい
ます。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵
をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。
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八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)は、奈良県磯城郡
田原本町八尾にある神社である。式内大社で、旧社格は県社。
4~5世紀にかけて、鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡(天
照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社であるとされる。
記紀によると、崇神天皇6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座
せしめたとある。社伝によると、「崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を
鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。」とあり、この際に作られ
た神鏡を御神体として祭祀したのが当社の起源とされる。『和名抄』には大和国城下郡
の条に「鏡作郷」と記載があり、この地には仿製鏡の製作に従事した鏡作部(かがみつ
くりべ)が居住していたとされることから、当社の創建には鏡作部との関係が強いもの
と考えられる。更に近辺には鏡作伊多神社、鏡作麻気神社といった神社があり、当社
との関連が指摘されている。
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豊雛大明神
鏡作神社の鳥居の南側に西を向いて豊雛大明神 豊受大神を祭る神社。
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長顕寺
寺伝によると当時創建以前は既に妙見信仰が盛んでしたが、領主平野家の武運長久
の祈願寺として、京都から招かれたと伝えられています。
寺地は平野家のもと蔵屋敷跡を寄進され建立したと云われています。平野家は日蓮宗
でしたが、田原本に陣屋を置くようになって浄土宗に改宗した為、日蓮宗信者の家臣の
ために長顕寺を建立したとも伝えられています。
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西田原本駅、シャリョウが100年前のカラーに・・・
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1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-1

2月1日      1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-1
                  歩こう会3月のコース下見
此の日は、3月度歩こう会のコース下見、下見で歩いてみて良かった、とても歩けるコースでは
無かった、上り坂がしんどくてしんどくてギブアップ、M越さん・Y本さん・M吉さん・K場さんと5名
で、此の日の私の万歩計は、27416歩で約20.2kmあるいた事に・・・
此の日のコースは、南海電車の推奨ハイキングコースのパンフレットを貰ってコース通りに・・・
河内長野駅(集合・スタート)~長野公園~河合寺~丸山展望台~観心寺~延命寺~千早口
駅(ゴール) 
5名で歩いてみて、3月の本番のコースとしては、河内長野駅~観心寺へバスを使用、観心寺
境内散策(霊宝館見学・星塚巡り・大楠公首塚・昼食・後村上天皇陵)(解散)~※河内長野駅。
※観心寺~河内長野駅へは、歩くコースとバス使用コースに分かれて・・・
志都美駅
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柏原駅で近鉄線へ乗り換え
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河内長野駅
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落合橋を渡る
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長野公園
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河合寺へ向かう
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河合寺(かわいでら)
河合寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派の寺院。山号は宝珠峰山。本尊は千手
観音菩薩。河合寺縁起によれば、当時、この地の山々に五色の雲が何日にも渡り棚引いて
いた。天皇の命により蘇我入鹿が調査すると、光が差している松の大木から千手観音菩薩
の像があらわれたという。驚いた天皇の命により皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が当寺を
創建したといわれる。 承平(西暦931~937年)の頃、河南の三大名刹の一つとして知られ
ていたが、その後、足利氏に攻め入られ大伽藍を焼失したり、織田信長による寺領の没収
などにより衰退した。河合寺の裏山一帯は、大阪府立の府営長野公園の一部となっており、
山一面に広がる約500本の桜と山腹に約5000株のアジサイが咲く自然公園となっており、
特に桜は大阪みどりの百選に選定されている。 奥の院の横にあるあじさい園にも展望台が
あるが、さらに450m登った所にも展望台がある。
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笠松大明神
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丸山展望台へ向かう
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丸山展望台
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観心寺へ向かう
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もうすぐ観心寺、気温5度・・・
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観心寺(かんしんじ)
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山
である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河
内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。そ
の後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つ
の「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」
の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊
として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈
良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説もあながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起
資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めて
いる(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡
東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇
る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平
14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内
には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ
けが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願
して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断さ
れ、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ首塚に祀られている。
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楠木正成ゆかりの寺として知られる『観心寺』の山門前
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山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
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中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。

金堂は国宝です。
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建掛搭は重要文化財です。
楠木正成は建武新政の成功を祈願して三重搭を計画しましたが、神戸湊川で討死した為
初層のまま未完成で現在に至っています。
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弁天堂
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修行大師
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天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
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素晴らしい青空
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天皇陵を下る
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「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
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此の続きは、
1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、霊宝館~
霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
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星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約10分です)
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観心寺を後に延命寺へ向かう
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延命寺(えんめいじ)
延命寺とは大阪府河内長野市の真言宗御室派の寺院。山号は薬樹山。
弘仁年間(810年 – 824年)、空海が地蔵の石仏を刻んで本尊としたのが当寺の始まりとされ
る。寛永16年(1639年)に、この地に生まれた浄厳が伽羅山延命寺に寺号を改め中興する。
延宝5年(1677年)、薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改められた。山号の
由来はこの地に薬草が多く生えていたことからとされる。紅葉の名刹として有名で大阪みど
りの百選に選ばれている。樹齢1000年とも言われている巨大なカエデ(もみじ)の老木は
「夕照もみじ」といい大阪府天然記念物に指定されている。また、すぐ近くには長野公園・延
命寺地区がある。
延命寺の石碑。
江戸時代の高僧、浄厳(じょうごん)が延宝5年(1677)に創建したといわれています。
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延命寺の夕照もみじ
昭和45年2月20日に大阪府指定天然記念物に指定されています。
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千早口駅へ向かう
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美加の台
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千早口駅 六文銭を描いた電車が来た・・・
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