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12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-1

12月29日     12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-1
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞ 
此の日は知人・K場さん・I 田さんと3名で参加した。此の日の私の万歩計は、24118歩
で17.8km歩いたことに。此のハイキングガ今年締め括りのハイキングでした・・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  五位堂駅(受付)10時~11時   10j過ぎ集合で
五位堂駅(受付・スタート)~福応寺~杵築神社~狐井城山古墳~阿日寺~相撲発祥
の伝承地・良福寺腰折田~道の駅當麻~二上山ふるさと公園(昼食)~石光寺~當麻
寺~相撲館けはや座~中将餅屋(お茶休憩)~領家山古墳~大和高田駅
志都美駅
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香芝駅~下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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五位堂駅(受付・スタート)
福応寺(ふくおうじ)
恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の創建と伝える福應寺(ふくおうじ)がある。
ご本尊は恵心僧都真筆とされる板絵(いたえ)「阿弥陀三尊来迎図」(あみだ さんぞん
らいごうず)。このご本尊が毎年7月9日に開扉される。
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※福応寺の板仏
狐井城山古墳の北側に隣接する福応寺の本尊で、板に描かれた珍しい阿弥陀来迎
図(高133.8cm、幅69.5cm、厚4.5cm)です。3枚の檜材を縦に接いで構成され、板
地に薄紙を横方向に5枚貼り、さらに板の接ぎ目には紙を貼り重ねて接ぎ目を隠して
います。朱・えんじ・黄土・緑青・藍・金泥・墨などで極彩色に描かれています。制作は
室町時代末期から江戸時代初期頃と推定されます。
香芝市狐井・良福寺に生誕地伝承を有する平安時代の学僧恵心僧都源信(942-10
17年)の真筆との伝があります。

杵築(きつき)神社
狐井に大樹が繁る杵築神社、境内に「きつねの井戸」といわれる古井戸が今も残る。
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奈良県の北西、香芝市にある狐井(きつい)というところの昔話。
昔、この村は水に恵まれず、村人は鎮守のお宮さんに、「どうぞよい水をお与え下さい」
と祈っていた。鎮守の森には狐の家族が住み、人なつっこい姿をよく見せた。村人は
「ひょっとしたら、神様のお使いかもしれん」と、暑い日には、大切な水を少し子狐に与
え、貴重な油揚げをそっと置いたりした。さて、その年はとりわけ、水不足が深刻であっ
た。ある日、村人が「お宮さんの奥で、何やら水の音がする」と言った。大急ぎで皆が
駆けつけてみると、なんと井戸からきれいな水がこんこんと湧きだしているではないか。
村人は喜び、水を両手ですくい、押し頂いて飲んだ。井戸のそばに狐の親子がいて、
母狐の前足は泥にまみれ、爪の間にはうっすらと血がにじんでいた。村人は口々にお
礼を言い、狐の足をきれいな水で洗ってやった。狐が掘り当てたこの井戸は、どんな日
照り続きにも、水が涸(か)れることはなかった。近くの村人にも快く井戸の水を汲ませ
た。それで、この村を「狐井」と呼ぶようになったそうな。
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狐井城山古墳(きついしろやまこふん)
全長約150mの前方後円墳で墳丘は中世に城郭として使用された為、改変を受けていま
すが、前方部が大きく開く形態で、築造年代を6世紀前半代に位置付ける事ができるとさ
れています。盾型の周濠と幅広の外堤をめぐらしており、埋葬施設は不明ですが、かつて
は古墳東側で用水の桶として利用されていた石材が竜山石製の長持型石棺の蓋石で、
元々は此の古墳のものであった可能性が有ると言われています。位置夜やその威容から
武烈天皇陵とする説も有ります。
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阿日寺へ向かう、二上山が見える
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阿日寺(あにちじ)
浄土宗阿日寺は、平安時代中期の天台宗の高僧・恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)
ゆかりの寺としてしられています。恵心僧都は此の寺で誕生したと伝えられ、其のため誕
生院阿日時と号しています。恵心僧都は、寛和元年(985)9月、母親の臨終に際してとも
に念仏をし、母の安楽往生を助けたと言い、更にその忌中には阿弥陀如来像を刻み、母
の身代わりとして良く仕えたと言われています。以来此の像は、下の世話をかけずに往生
できるとして、阿日寺の本尊として祀られて来ました、其の為、阿日寺は斑鳩の吉田寺と
並ぶ「ぽっくり寺」として、全国から年配の参拝者が後を絶ちません。親孝行の恵心僧都
は、更に父の為にも大日如来を彫ったと言われており、寺の名前は此の2像の名前から
「阿日寺」と付けられました。
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相撲発祥の伝承地へ向かう、正面に二上山
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相撲発祥の伝承地・良福寺「腰折田」(こしおれた)
香芝市良福寺付近にある「腰折田伝承地」です。初めての展覧相撲で腰の骨を折られて
撒けてしまった當麻蹴速(たいまのけはや)の領地が、勝者の野見宿禰(のみのすくね)に
与えられました。後の時代に、此処が決闘の場所だと伝わっています。現在は説明看板と
力士像?画建立されて土俵が描かれています。
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道の駅當麻
辛子付きのコンニャクを食べて小休止・・・
二上山ふるさと公園(昼食)
二上山のふもとに広がる自然公園で、昼食やピクニックに最適な広い芝生広場が有りま
す。夏になると水遊び場に変身する水辺のテラスや、木製の遊具、ログハウス調のおも
ちゃ館等子供達が大喜びする自然遊びが沢山有ります。又、奈良盆地が一望出来る展
望台が、456段の石段を上った所に有ります。体力に自信のある方は是非、挑戦してみ
てください。
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石光寺へ向かう
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石光寺(せっこうじ)
大和路の二上山のふもとにあり、日本最古の石仏、中将姫伝説、ボタン・芍薬の花で知
られています。草創は約1300年前、天智天皇の勅願で建てられ、境内には四千本以上、
五百二十種類の色とりどりのボタン・芍薬が有ります。別名「染寺 そめでら」とも呼ばれ、
中将姫ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」があっります。
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此の続きは、
12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
           https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、當麻寺へ向かう~
當麻寺へ向かう
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中将姫墓塔
中将姫の墓塔は、奈良県葛城市にある史跡である。
當麻寺の北側共同墓地内にあり、石造十三重塔花崗岩製、高さは285cm。初重四方
仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、
鎌倉時代末期の様式である。横に建つ石造三重塔は、平安時代後期の作で、高さは
156cm。當麻北共同墓地の東側入口通路に、慕塔の案内標柱が建てられている。
中将姫の墓は、ならまちの徳融寺の境内にもある。
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當麻寺(たいまでら)
奈良県葛城市にある7世紀・白鳳時代に創建された名刹です。二上山(にじょうさん、
古くはふたがみやまとも)の麓にあって、自然に囲まれた静かな佇まいの寺です。當
麻寺が人々に知られるのは、奈良時代の右大臣藤原豊成の娘、中将姫が一夜で織
り上げたと言う西方極楽浄土を描いた「當麻曼荼羅」にまつわる中将姫の物語です。
其の他にも、広い境内には東塔や西塔等の国宝や、日本最古の石燈籠、日本最古
の梵鐘など重要文化財が沢山あります。
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相撲館へ向かう
天満宮
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相撲開祖 當麻蹴速の塚・・・當麻蹶速物語
第十一代垂仁天皇が世の中を治めておられた時代の出来事です。緑豊かな當麻
の里に、當麻蹴速(たいまのけはや)という男がおりました。心根のたいへん優しい
男でしたが、素手で角をへし折り、曲がった釘も伸ばしてしまうほどの怪力の持ち主
で、「まわりを見ても自分と力を比べられる者がいない。なんとかして力の強い者と
めぐりあい、ひたすら力比べをしたいものだ。」といつも思っていました。蹴速は里の
人の誰からも慕われ、當麻の里では蹴速を知らない者はいませんでした。そんな當
麻の里に天皇様のお使いがやってきたことからこの物語は始まります。
ある日、天皇様は従者に命じて、ご自分の治めておられる當麻の里の様子を見てく
るようにとおっしゃいました。さっそく、従者が當麻の里に行ってみると、河原に里の
人が集まって何やらにぎやかな様子です。
「私は天皇様の使いの者である。このたび天皇様より、その方たちの暮らすこの當麻
の里で何か変わったことはないか、とのお尋ねじゃ。」お使いは集まった人々に向かっ
て言いました。「はい、お蔭さまでこの當麻の里には當麻蹴速という頼もしいお方がお
られますので、私たちは平穏無事に暮らしております。」「當麻蹴速?それはいったい
何者じゃ?」お使いが聞き返すと「気は優しくて力持ち、我らの誇りとするお方です。」
「あの方なら、この国の領地すべてを治めることができるでしょう。」
「日本一の力持ち!この国広しと言えども、蹴速様にかなう者はありますまい。」
里の人は口々にこう答えるのです。「當麻蹴速・・・そのような男がこの里にいたとは知
らなかった。帰ってさっそく天皇様にご報告せねば・・・」お使いは慌てて天皇様の元へ
と帰って行きました。さて、お使いの報告にじっと聞き入っておられた天皇様は、
「うーむ。當麻蹴速に勝る怪力はおらぬものか。ぜひとも探して出して、その蹴速やらと
相撲をとらせてみたいものだ。」とおっしゃいました。すると一人の従者がうやうやしく進
み出て、「なんでも、出雲の国(奈良県桜井市出雲と伝えられている)には、野見宿禰と
いう怪力者がおりまして、どんな大岩でも持ち上げるとの評判にございます。この者を
當麻蹴速と戦わせてみてはいかがでしょう?」この言葉をお聞きになられた天皇様は、
直ちに祖長尾市を使者に立てて出雲に向かわせ、野見宿禰を呼び寄せました。そして、
二人の相撲決戦の日を七月七日とお決めになりました。
七月七日、いよいよ天皇様の御前で蹴速と宿禰は顔を合わせました。「どちらかが降参
するか、精魂尽き果て倒れるまで相撲を取り続けるよ!」従者の声が辺りに響き渡ると、
それを合図に二人の豪傑のすさまじい死闘が始まりました。どちらも日本一を誇る勇者
ですからお互い一歩も譲らず、決着は容易に着きそうにもありません。命をかけた二人
の相撲は七日間にも及び、長い戦いがようやく決着したのは、七日目も暮(く)れようとし
ていたころでした。蹴速の応援に夢中になったのでしょう、幼子が土俵に飛び出し、それ
に気をとられた蹴速の一瞬の隙をつく宿禰の攻撃が、勝敗を決めたのです。宿禰の蹴り
を背中に受けた蹴速は、その場に倒れ込み、再び起き上がることはできませんでした。
二人の相撲をご覧になった天皇様は大いに満足されて、勝った宿禰にはご褒美として蹴
速の領地のすべてをお与えになりました。一方蹴速は、相撲対決にこそ負けはしましたが、
里の人々は以前と変わらず蹴速を里の誇りとしてたたえ続けました。
蹴速と宿禰、二人の命がけの戦いは、日本最初の天覧相撲であり、日本の国技相撲の
原点となりました。
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相撲館けはや座
平成2年5月に開館された相撲館は全国でも珍しい相撲の資料館です。1回中央に
は本場所と同サイズの土俵が有り、相撲の歴史や郷土力士に関する資料が展示さ
れています。(料金 大人300円 子供150円)。
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併設の観光休憩所は無料です。
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中将餅屋(お茶休憩)
知人と3名で当麻から大和高田へ向かう当麻寺駅前の中将餅屋でお茶休憩、
中将餅とお茶のセット(@300円)でくつろぐ・・・
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領家山古墳へ向かう
当麻寺駅
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領家山古墳(りょうけやまこふん)
この小高い丘は、領家山と呼ばれ、元々立派な古墳で有ったが、崩壊が著しく原型
を留めておらず、昭和30年11月、陵西小学校の二人の児童が、此の古墳から大き
な鶏頭(けいとう)埴輪や他の埴輪の破片と共に発見した。この鶏頭埴輪はまれに見
る大きもので、頭部は殆ど完全で有るが、胴体は失っていた。
この埴輪は、現在、橿原考古学研究所の博物館に保管されている。
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大和高田駅(ゴール)
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大和高田駅→五位堂駅
五位堂駅
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12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-1

12月28日      12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-1
                2月5日の歩こう会特別企画 コース下見約9㎞
此の日は知人と3名で2月5日の歩こう会特別企画のコース下見に田原本町に行って来た、
オプションも加えて歩いてみる事に、その中で本番のコースを決めて行く・・・
コース下見  近鉄田原本線黒田駅に10時集合  ・M吉さん・Y田さんと私の3名で歩いた
近鉄田原本線 黒田駅(スタート)~孝霊神社(集合場所に設定)~法楽寺(桃太郎伝説発
祥の地)~黒田大塚古墳(トイレ休憩)~笹鉾山古墳(オプション)~安養寺(オプション)~
鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院~ながめの丘展望台
~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展示情報館~道の駅「レスティー唐古・鍵」~
近鉄橿原神宮線石見駅→田原本駅出降りて田原本町観光ステーションに立ち寄り。
曇り空の中を歩いたが雨には降られず、田原本駅で乗り換え時にパラパラと小雨に会い、
此の日の私の万歩計は、21416歩で約15.8km歩いたことに・・・
本番へのコース設定を次に決めた
黒田駅~徒歩3分~孝霊神社(受付・集合場所)~法楽寺(桃太郎伝説発祥の地)~黒田大
塚古墳(トイレ休憩)~鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院
~ながめの丘展望台公園(トイレ休憩・展望)~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展
示情報館(解散)~道の駅「レスティー唐古・鍵」~橿原神宮線石見駅
志都美駅
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王寺駅(1月22日の歩こう会 受付・集合場所)
りーべる王寺1F玄関前広場・・・雪丸像が
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黒田駅
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孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦命
(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社であっ
たが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧地より
移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。
岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』
に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するもの
である。第七代孝霊天皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この
黒田のあたりを指し、この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。孝霊神社の周辺
には弥生時代の黒田遺跡や、古墳時代の前方後円墳・黒田大塚古墳がある。又、この
前の道は、聖徳太子が通ったとの伝承をもつ太子道である。
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法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかかる
ものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)に
再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の伽
藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在残
るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後期)
などの古い仏像も所蔵する。
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黒田大塚古墳・・・古墳に登れる トイレ休憩
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は86m
であるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。周濠の発掘調査
では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたものと考えられる。葺石は
認められない。出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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笹鉾山古墳へ向かう
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笹鉾山古墳・・・オプション 入口も中も狭く多人数で入れない
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。全長
88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方部に向かっ
て参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立されていた。 古墳時
代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円墳(2号墳)が存在する。
2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬のセットが2組出土している。馬子
の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。出土した埴
輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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安養寺・・・オプション 回り道になる、トイレが有れば良いが?
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。安養寺(あんようじ)は
1633年に創建されたお寺です。木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭
の作品です。像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗
ったものである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映
っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認めら
れるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後
世に書き改められたものと考えられている。
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鍵の蛇巻きへ向かう
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鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で祝い事
のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ねる。300キロ
近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加した全少年が頭の前
進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学校の前の「はったはん」とい
う場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に吊るされる。(下り龍・降り龍)
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※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18mにもな
る蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの先にくくられた「わ
かめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。甘く美味。その後、中学1
年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめでとう」と言いながら練り歩
く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、
神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。(上り龍・昇り龍)

唐古・鍵遺跡史跡公園・・・トイレ休憩
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈良盆地のほ
ぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、大型建物や高床・竪
穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。大環濠(内濠)は直径400
mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方mの面積を占める。出土遺物は土器、
農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、
種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に
入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺
構・遺物から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。展示品は、唐古・鍵考古
学ミュージアムに展示している。
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此の続きは、
12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、池坐神社~
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年ごろ
までは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定されてい
る。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の実相院が社
僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社が切り離されるま
で続いた。
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千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にか
わって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでにな
く、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
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大和川の堤防へ出て
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ながめの丘展望台(大和川堤防に建つ展望台)・・・トイレ休憩
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唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
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唐古・鍵遺跡史跡公園・・・昼食&トイレ休憩
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遺構展示情報館
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道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・トイレ有
田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベントの開催とともに、田原本町内の
新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多数販売します。また、1階のベー
カリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを販売し、2階の
カフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメインに、ドリンクメニ
ューや軽食メニューをご用意しています。
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石見駅へ向かう
石見鏡作神社(三宅町にある鏡作神社)・・・隣の田原本町に鏡作神社が3社ある
当社は延喜式内社にして鏡作の祖神を祀る。石凝姥命を祀る古社である。
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※石凝姥命(いしこりどめのみこと)、別名 伊斯許理度売命(:いしこりどめのみこと)
鏡作りの神。鏡作の遠祖・天糠戸の御子。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、 鍛人天津
麻羅を求ぎて伊斯計理度売命に鏡を作らせたとある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと
考え、石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけ
た矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。また他の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸
に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石
凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖である天糠戸の御子であること
がわかる。天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、
天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。

石見駅
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12月16日の酒蔵見て歩き 天理 稲田酒造「稲天」-1

12月22日      12月16日の酒蔵見て歩き 天理 稲田酒造「稲天」-1
                 近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は、知人・K場、I 田さんと3名で参加、午後の雨を心配しながら歩いたが幸い雨
は降らず事無きを得た、18日には異なるコースで稲田酒造様へ向けて歩こう会の納会を
実施する為、此の日は下見?前哨戦?此の日の私の万歩計は、 
コース  近鉄駅フリーハイキング 天理駅受付10時~11時  我々は10時半集合で・・・
天理駅(受付・スタート)~上街道~丹波市跡~市座神社~藤の棚の句碑~山の辺の道
~夜堵技(やとぎ)神社~天理観光農園~内山永久寺跡~石上神社~天理教本部~稲
田酒造・甘酒・試飲・抽選会・酒粕詰め放題(ゴール・解散)~天理本通り商店街~天理駅
今回は、抽選会でK場さんが酒粕当選!おめでとう・・・
日本酒の苦手な私だが甘酒は大好き、此の日はとても暑く?ぽかぽか陽気で天理観光
農園に着くなりソフトクリームで咽を潤してから昼食、トイレ休憩をしてから急坂の山の辺
の道を進み、此の日の私の万歩計は、22145歩で約16.3km歩いたことに・・・
天理駅(受付・スタート)
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天理本通り商店街
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上街道商店街~丹波市跡へ
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丹波市跡
丹波市跡・・丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市?
なぜ丹波といったかは詳かではないが、古代の氏族に関係ないかと疑っている。大和
郡山市に美濃庄あり、丹後庄あり、和爾と櫟本には丹後という小字があるから、中世
の領主関係か併せ考うべきである。ここが中世末になって上街道に沿った市場として
発達して丹波市となった。丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市という
と一般にいわれているが、丹波の名は延久以前にさかのぼる。
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恵比寿神社&市座神社
市座神社
丹波市町の恵比寿神社・市座神社
参道の入口左側には丹波から遷されたという恵美須神社、また本殿の右側には妙見
社があります。創祀は不明ですが、事代主命を祀り、今も丹波市の名にふさわしく市
場の守護神として尊崇されています。奧の境内は広く、一角には明治時代まで橋とし
て使われていた大きな石が立てかけられています。この石は緑色をしており、もともと
は古墳に収められた石棺の蓋でした。橋として近代まで転用されていただけあって、
とても大きなものです。今では面影がありませんが、近くには古墳がたくさんあったそ
うです。この石もその中の一つの古墳で使われたものと考えられます。
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藤の棚へ向かう
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藤の棚が見えて来た
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藤の棚の句碑
藤の棚・・・松尾芭蕉の句碑
貞享4年(1687)10月、江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は、翌年3月、杜国
(万菊丸)を同道して、吉野の花見・高野詣・紀伊遊覧・大和の順遊を試み、4月、須磨
・明石を訪ねて、同月下旬、京に入った。
弟子を伴って此処を訪れた芭蕉は、藤の花を見て、「 草臥(くたび)れて宿かる比(ころ)
や藤の花」と詠み、その句碑が藤棚の下で、今も静かに四季を見つめています。
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夜堵技神社へ向う
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夜堵技(やとぎ)神社
夜都岐神社(やつぎじんじゃ)
夜都岐神社は、奈良県天理市にある神社である。旧社格は村社。夜都伎神社とも書
かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。式
内小社「大和国山辺郡 夜都伎神社」の論社である(他の論社は同市竹之内町の十
二神社と田井庄町の八剣神社)。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。
全国にある八剣神社との関係の可能性も考えられる。
祭神は、武甕槌命・姫大神・経津主命・天児屋根命。
乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400
m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1
社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられる。
乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当
地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳
があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われて
いる。春日大社との関係が深く、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌を献上して
いた。春日大社からは、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に下賜して使用
させる伝統があり、応永13年(1406年)には春日大社の第四殿を下賜されている(春
日大社文書)。また、寛正2年(1461年)4月6日には大乗院の尋尊が参詣に訪れてい
る(大乗院寺社雑事記)。現在の本殿は明治39年に春日大社から移された建物。拝殿
はこの地方では珍しい萱葺である。
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石上神宮へ2km
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天理観光農園へ向かう
正月桜が咲いていた・・・
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此の続きは、
12月16日の酒蔵見て歩き 天理 稲田酒造「稲天」-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、天理観光農園(昼食&トイレ休憩)~
天理観光農園(昼食&トイレ休憩)
天理市の観光名所「山の辺の道」沿いに立地。約1ヘクタールの園内に早生温州みかん
約800本が植林。みかん狩りがたっぷり楽しめます。カフェ、あわ餅つき、バーベキュー、
部屋の貸し出し等。利用方法は自由自在。ご相談下さい。
此の日はとても暑く?ぽかぽか陽気で天理観光農園に着くなりソフトクリームで咽を潤し
てから昼食、トイレ休憩をしてから急坂の山の辺の道を進んだ・・・
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山の辺の道を内山永久寺跡へ向かう
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山なみの向うにシャープの天理工場が見える
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内山永久寺跡へ向かう
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内山永久寺跡
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は天理市杣之内町にかつて存在した廃寺です。平安
時代後期の永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えら
れ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれます。しかし、明治年間の廃仏毀釈より徹底
的な破壊を受け、いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。
内山永久寺は院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、阿弥陀如来を安置して
いたとされます。創建時の年号によって永久寺と称し、その地が五鈷杵(ごこしょ)の形を
して内に一つの山があったので内山と号したといわれています。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、延元元(1336)年には後醍醐天皇も
吉野に行幸する際に当寺に立ち寄っています。室町時代には「大乗院寺社雑事記」にし
ばしば金剛乗院または内山永久寺のことが記載されています。寺領は最盛期には971
石に達し、境内は五町四方の広大な地域をしめたといわれます。江戸時代末期まで40
有余坊の伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳を敷き、参
詣者が常に絶えなかったといいます。元治元(1864)年には勤王派の絵師冷泉為恭(れ
いぜいためちか)も一時この寺に身を寄せた記録が残っています。
明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、明治9(1877)
年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞ
かれました。現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。貴重な仏
像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。
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石上神社へ向う 0.7km
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石上神社
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰
の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信
仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年
に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上
振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみ
たまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の
神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
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天理教本部へ向かう
天理教本部
天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖
とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人
天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義に
は中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。
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天理本通り商店街
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天理三島本通り商店街
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稲田酒造で抽選会・甘酒・試飲・酒粕詰め放題にも挑戦
稲田酒造・・・HPより
稲田酒造は明治10年から天理市で天理教会の御神酒として日本酒造りを始めました。
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にする事をモットー
に営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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抽選会でK場さんが酒粕当選!おめでとう・・・
K場さんと二人で酒粕詰め放題に挑戦、K場さん2.8㎏、私は2.2㎏詰めて持って帰った。
酒粕詰め放題は童心に帰り楽しかったので稲田酒造さんにお願いして18日の歩こう会の
納会で訪問する時のイベントにも加えて貰う様にした・・・・

商店街を天理駅へ

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真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-1

12月15日       真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-1
                 12月12日の昼飲み会忘年会ハイキング
昼飲み会に参加する知人・S藤さん・M吉さん・K場さんと4名で湯処・あべの橋温泉~居
酒屋での昼宴を目指して歩いた、雨にも会わず、まーまーのハイキング日和でした。
コース  真田幸村 大坂の陣 ゆかりの地を訪ねて 古市駅10時スタートで歩きました。
古市駅(10時スタート)~白鳥神社~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~誉田八幡
宮~応神天皇陵~大鳥塚古墳・縦走~小室山古墳・縦走・昼食~仲姫命陵古墳~古室
八幡神社~澤田八幡神社~鍋塚古墳~道明寺~道明寺天満宮~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅  湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 
此の日の私の万歩計は、20599歩で約15.2kmあるいたことに・・・
志都美駅
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柏原駅で近鉄線に乗り換え
道明寺駅で橿原神宮前行に乗り換え、道明寺駅ホーム
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※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる? 近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属
する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。1922年(大正11年)
4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。1943年(昭和18年)2月1日 - 関
西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統
合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、
近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を停止し、
解体された。

古市駅(10時スタート)
※古市駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
道明寺駅、柏原駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。

白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
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日本武尊(ヤマトタケル)御陵参道
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
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向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
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誉田八幡宮へ向かう
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
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東高野街道(ひがしこうやかいどう)
・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。

応神天皇陵(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
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事務所でトイレを貸して貰った
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大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)・縦走
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
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小室山古墳(こむろやまこふん)・縦走・頂上・昼食
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
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昼食を済ませて
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この続きは、
真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-2 として
               下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、仲姫命陵古墳から
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
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古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
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※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。

澤田八幡神社・・・境内を電車が通る神社としても有名
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
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鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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道明寺寺(どうみょうじ)・・・真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源。
当初は天満宮の南側参道付近に位置し七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
石川の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に移りまし
た。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観で きます。
901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けば
こそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれてい
る。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。隣接して道
明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所
領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師
氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸
を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が
住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元
年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真
公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
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展示の修羅
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土師社
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道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 ~ 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 甘太郎

道明寺駅前
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立され
た記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の歴史が大きく動い
た戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だたる武将が戦いました。
地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦祭り」などを毎年開催しています。
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阿倍野キューズモール
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湯処・あべの橋温泉・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名  龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質  ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋・・・今日は6名で
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おまけ
帰りの王寺駅で・・・
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12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-1

12月11日        12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-1
                  南海・近鉄・阪神 TRYあんぐるウオーク
此の日は、後で分かった事だが大阪の最高気温が8度と、この冬一番の寒さだった様で
確かに西成公園で昼食の時一気に手がかじかんだ事、其の後陽当たりの良い陽射しの
有る場所を選んで歩いた事を帰ってから思い出した。やっぱリ寒かったんだと・・・
コース  近鉄大阪上本町駅(受付9時半~10時)
大阪上本町駅(受付・スタート)~生国魂神社~大蓮寺・吉本芸人塚~新世界・通天閣~
~てんしば~あべのハルカス~新開筋商店街~鶴見橋商店街・津守商店街~西成公園
~津守神社~千本松渡船場・千本松大橋(めがね橋)~千島公園~阪神ドーム前駅
久し振りのハイキング、此の日の私の万歩計は、31946歩で約23.6km歩いたことに・・・
大阪上本町駅(受付・スタート)で知人と合流、生国魂神社へ向う
生国魂神社
式内社で、旧社格は官幣大社。難波大社(なにわのおおやしろ)ともいう。地元で
は生玉(いくたま)さんの通称で親しまれている。
伝承によれば、神武東征の際に、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端
に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願した
ことに始まるという。『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、天皇が難波宮造営に際
して北隣する「生國魂社の樹(木)」を切ったとある。延喜式神名帳には「難波坐生
國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。
1496年(明応5年)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が
神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとさ
れ、当社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周
辺ということになる。1580年(天正8年)に石山合戦の戦火により焼失。1583年
(天正11年)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定さ
れた。
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既に来年の干支が・・・
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※大蓮寺
なにわの名刹・浄土宗大蓮寺は、いまから450 年前の天文19年(1550年)3月5日、
時の将軍足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建さ
れました。正式な山号は「浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺」。
当時5千坪を有したといわれる大蓮寺は、その頃から大阪屈指の寺院として名高く、
近世には徳川家の祈願所として愛護され、浄土宗別格寺院としての威容を誇りまし
た。境内は東西五町南北四町、塔頭8ヶ寺、直末75ヶ寺を有したといわれます。
明治45年、大阪大火によって境内の一部を焼失。昭和20年3月14日大阪大空襲に
より伽藍を焼失して、戦後再建されました。寛永期造立された梵鐘は総高206cm、
市中第一といわれましたが、戦時中に供出されました。
また、大蓮寺では近世から大規模な寺子屋が開かれ、根来誠齋や石田梅岩とも縁
が深く、顕彰碑や門弟の墓碑が現存しています。広大な寺域ではしばしば出開帳や
勧進興行も催され、「摂津名所図会」に記録があります。また大坂三十三ヶ所観音
霊場巡礼の二十八番札所としても知られ、往時のにぎわいは近松門左衛門の名作
「曽根崎心中」にも描かれています。
明治29年には天王寺中学校(現高校)、高津小学校が当山で発祥、昭和28年には
境内に直営のパドマ幼稚園を開園、平成9年には塔頭・應典院を再建、社会教育や
芸術活動に取り組むなど、現代も地域文教の寺院として広く親しまれています。
吉本芸人塚
墓地西入り口に、平成5年秋には、吉本興行創業者吉本せいの遺児にあたる辻阪
邦子氏の発起により、無名芸人を偲ぶモニュメント「吉本芸人塚」が建立されました。
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新世界へ向かう
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新世界
1897年(明治30年)に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、畑地や荒
地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、1903年(明治36年)に開催された
第5回内国勧業博覧会で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部とともに会場敷地と
なった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点では「万博」に近いも
のがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。
博覧会に合わせて日本橋筋の3丁目以南(現在のでんでんタウン)が整備された。会場
の西縁には既に1885年(明治18年)12月に南海鉄道(現・南海本線)が、南縁には188
9年(明治22年)5月に大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じていた
が、会期中は南海鉄道が今宮戎駅南側に「博覧会会場門」駅を、関西鉄道が天王寺駅
西側に「博覧会」駅をそれぞれ開設。来場者の利便性を図った(博覧会終了後は両駅と
も廃止)。 1907年(明治40年)には片岡直輝ら大阪財界有志が恵美須町から浜寺まで
の鉄道敷設を申請。1910年に「阪堺電気軌道」(旧)が設立され、翌1911年に恵美須町
から市之町までが開業した。大阪財界は恵美須町がターミナル駅として発展することを
見越して、博覧会跡地を一大娯楽センターとする計画を立案する。
1908年(明治41年)には博覧会跡地北西角の恵美須交差点から大阪市電南北線が
難波を経由して梅田まで開通している。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万
坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪
土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふ
れこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初は「新巴里」「第
二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。

福永大神・・・新世界稲荷神社
創建は明治45年、通天閣の近くにある比較的歴史の浅い神社です。 境内には、
石でできたルーレット形のおみくじ機?があり、円盤を回して出た数字を横の表に
照らし合わせて運勢を占うというもので無料です。正面の鳥居には福永大神とあ
りますが、中の鳥居には新世界稲荷神社とあり、こちらが正しいようです。
入り口の石標も鳥居の額も福永大神とあるが、中は新世界稲荷神社となっている。
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通天閣
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔である。
2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった。公式キャラクターは「ビリケン」。
大阪の観光名所として知られる。現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完
成した。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう株)により運営されている。避雷針
を含めた高さは108m(塔自体の高さは100m。避雷針は2016年に3mのものから8mの
ものに更新している)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなど
を手がけた内藤多仲。建設を施工したのは奥村組である。「通天閣」とは、「天に通じる
高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。
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新世界ラジウム温泉・・・HPから
大阪のシンボル通天閣の真下に、大阪新世界の銭湯・ラジウム温泉があります。ワン
コインセットで、手ぶらでブラッと入れます。通天閣を眺められる大きな露天風呂では、
本物のラジウム鉱石(人形峠産鉱石)を使い本格的なラジウム温泉を体験して頂けま
す。又、関西でも数少ない高濃度人工炭酸泉風呂設備のある銭湯です。優待駐車場
のサービスも完備しています。朝風呂年中AM6:00から営業。是非お越しください!
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ジャンジャン町・・・ジャンジャン横丁(ジャンジャンよこちょう)
「ジャンジャン横丁」は、新世界の南東部に位置しており、全長約180m。アーケード
はあるが、横幅は2.5mほどと非常に狭い。それがかえって活気を醸し出している。
「ジャンジャン横丁」は通称で、正式名称は「南陽通商店街」である。
した飛田遊廓(1958年廃業)と新世界をつなぐ道筋として1921年、橋本傳三郎の尽力
で開通した。当時の地名は橋本の出身地である島根県の旧国名に因み「石見町」と称
していた。開通当時は関西本線を地下道でくぐる計画であったが、地元の反対にあい、
踏切となった(紆余曲折の末、1923年ごろに地下道が開通)。 当時としては一級の歓
楽街であった新世界と花街をつなぐルートだったため、多くの酔客が出入りし、それを
目当てに飲食店や男娼店、淫売店が急ごしらえで造られた。当時は肩をよけないと通
れないほどの雑踏が、軍艦内の通路に似ていることから「軍艦横丁」と呼ばれていた。
戦前、商店街北側には、噴水を設置した円形浴場やサウナ風呂、演舞場、食堂などを
備えた「噴泉浴場」(通称・ラヂューム温泉)という総合娯楽施設があった。1945年の大
阪大空襲で焼失した後、1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態変
更して復活。近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、新
世界名物として知られるようになった。
昭和初めには「両側から湧き起る三味線の喧騒、途方もない高い声を張り上げて、やけ
に喚き立てるサノサ節屋、串本節や、道頓堀行進曲。さういふものが一緒になって、道
行く人の心を沸き立たせる。「ジャンジャン横丁」はこの三味線の撥音に由来する。この
喧騒は戦後も続き、道沿いには飲み屋や射的の店が立ち並んでいた。
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てんしばへ向かう
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てんしば・・・大阪天王寺公園エントランスエリア
“てんしば”は、天王寺駅各線、近鉄大阪阿部野橋駅から徒歩すぐ。エリア内にはレスト
ランやカフェ、こどもの遊具場にフットサルコートなど、多彩なテナントが充実。
イベントスペースとして利用できる約7,000㎡の芝生広場を目の前に、自然を満喫しな
がらランチを お楽しみいただけます。
公園内の動物園や美術館の他、周辺施設に足をのばすのもおすすめ。
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
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新開筋商店街
飛田本通り商店街(動物園前二番街)に繋がるアーケード商店街、
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鶴見橋商店街へ向かう
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鶴見橋商店街(つるみばししょうてんがい)
鶴見橋商店街は大阪市西成区の国道26号線花園町付近から西の阪神高速道路
15号堺線津守出入口付近まで東西約1kmに延びる商店街。昔からの店舗が多い
が、店舗数は減少傾向にある。
鶴見橋商店街は約100mおきに区切りがあり、東の1番街から西の8番街まで続い
ている(旧町名・鶴見橋通1丁目~8丁目にちなむ)。以前は日本で2番目に長い商
店街として数えられていたこともある(一番長い商店街は大阪市北区の天神橋筋
商店街)。
鶴見橋とは、西端の8番街の先に流れていた十三間堀川(現在の阪神高速道路15
号堺線。阪神高速道路建設のため1960年代に埋め立てられた)に架かっていた橋
の名前。1909(明治42)年に大日本紡績(現・ユニチカ)木津川工場が建設された際
に工場近くに架けられ、当時は鶴の飛来がよく見られたことから、地元の住民が「鶴
見橋」と命名した。 1909(明治42)年に大日本紡績木津川工場が操業を開始し、鶴
見橋に従業員向け社宅が建てられたことに始まる。 昭和初期には商店街が形成さ
れ、木津川工場の従業員の通勤路、社交場となっていく。1927(昭和2)年に阪堺電
鉄(後に大阪市電三宝線)の鶴見橋通駅、1942(昭和17)年に大阪市営地下鉄四つ
橋線の花園町駅が開業するなど、交通の便がよくなったことで遠方からも買い物客が
増え、心斎橋筋商店街・天神橋筋商店街と並ぶ「大阪三橋」と称されるほど発展した。
かつては、その豊富な店舗構成から「横に長い百貨店」とも称された。
商店街の西は阪神高速道路を越えて津守商店街、東は国道26号線を越えて花園
本通商店会にそれぞれ繋がっている。
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此の続きは、
12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-2 として
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         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、未だ未だ続く鶴見橋商店街~
未だ続く鶴見橋商店街
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津守商店街
大阪市のリストに掲載されていない津守商店街が、広義では新開筋商店街から西
に伸びる長い長いアーケード商店街の西端部となります。
南海汐見線津守駅付近にある津守商店街の西端 (大阪市西成区)
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西成公園・・・昼食場所
南海汐見線津守駅付近にある西成公園、メタセコイヤ並木も有る緑豊かな公園だが、
フェンスで囲まれた中にフェンスで処所仕切られている未だ未だ異様な感じの公園・・・
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津守神社
津守神社(つもりじんじゃ)は、大阪市西成区に鎮座する神社である。
現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾された歴史
がある。津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が、現在の津守神社に
あたる。江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称されて
いた。1871年(明治4年)に津守神社に改称。
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千本松渡船場
大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところで
あった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、
天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植
えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植
列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼
の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。
千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設け
られたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止さ
れることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も
通勤通学の貴重な足として利用されている。
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千本松大橋・・・高さ39m
千本松大橋(せんぼんまつおおはし)は、大阪府道5号大阪港八尾線の大阪市大正区
南恩加島3丁目~大阪市西成区南津守2丁目間の木津川に架かるループ橋である。
大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設された。両端部の2階式螺旋状坂路(720
度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てることから、地元で
はめがね橋の愛称で呼ばれる。 「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川
堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来している。 車道と歩道があり、自動
車・歩行者ともに通行可能。橋を通るバスも存在する。
木津川の両岸には工業地帯や造船所が広がり、大型船が頻繁に航行していた。そのた
め、船の運航に考慮して、通常の橋が架橋できなかった。
かつて自動車は上流の橋まで大きく迂回しなければならず、特に大正区南部の住民に
は交通面での不便を生じさせていた。交通の便を改善する目的で、桁下の高さを高く
とったループ橋・千本松大橋が建設された。
しかし、橋が完成した同年、第一次オイルショックやそれに伴う著しい景気の悪化などの
影響により、両岸にあった大型船を建造する造船所は一気に衰退し、またその他の工場
でも規模を縮小したために、皮肉にも、橋の完成と同時に航路高が33mも必要とする大
型船の航行はなくなってしまっていた。
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千島公園
※昭和山(しょうわざん)
昭和山は、大阪市大正区千島二丁目にある人工の山。標高33メートル。山の周囲は千島
公園(ちしまこうえん)として整備されている。
大正区千島の一帯には大正時代に貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成
していた。しかし地盤沈下の影響で貯木場の機能が低下したこともあり、貯木場や製材工
場は1960年代に住吉区(現・住之江区)平林に移転した。大阪市は1969年、貯木場跡地に
「港の見える丘」として人工山を中心とした公園を造成し、公園の周囲に公団住宅や官公庁
・公共施設を配置する「千島計画」を発表した。
大阪万博を控えて大阪市営地下鉄の路線整備が急速に進んでいたという建設当時の背景
から、地下鉄建設工事で出た残土約170万立方mを使用して山が建設された。1970年11月
30日に記念植樹式がおこなわれ、式典会場でこの山を「昭和山」と命名することが発表され
た。昭和山の名称は、昭和年間に建設された山ということに由来している。
その後山の周囲約11.2ヘクタールを整備し、1976年4月1日に千島公園が開園した。
昭和山は建設当時、大阪市では最も標高が高い場所となっていた。その後鶴見緑地内に
鶴見新山が建設されたことで、大阪市内最高峰は鶴見新山に譲り、昭和山は大阪市で2番
目に標高が高い場所となっている。
あの体操の金メダリスト、具志堅幸司氏の記念碑が・・・・
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阪神ドーム前駅へ向かう
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京セラドーム・・・今日はキスマイのコンサート?
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阪神ドーム前駅(ゴール・抽選会場)
3名ともハズレ・・・・本日のハイキング参加者は1248名だった

おまけは、我家のモミジ
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11月30日の昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺-1

12月9日       11月30日の昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺-1
                 近鉄駅フリーハイキング 約11㎞
此の日は、K場さん・M吉さん・S藤さん・M村さん・O村さんと私の6名、多人数で参加、
コース 近鉄駅フリーハイキング 河内国分駅10時~10時半 10:05集合
河内国分駅(受付・スタート)~土師ノ里駅前の鍋塚古墳~允恭天皇陵古墳~大水川
遊歩道~津堂城山古墳・八幡神社~産土神社~小山善光寺~雄略天皇陵古墳~藤
井寺駅へショートカット(辛国神社と葛井寺をやめて藤井寺駅から阿部野橋駅へ)
大阪阿倍野へ戻り、湯処あべの橋へ  居酒屋甘太郎へ その後2次会はジャンカラへ
此の日の私の万歩計は、22946歩で約16.9km歩いたことに・・・
此の日の私はJR高井田駅から近鉄河内国分駅のみんなの元へ
高井田駅前
白坂神社
「宿奈川田(すくなかわた)神社」、主祭神は『宿奈彦根命・高 皇産霊命・級戸辺命』式内
社で日本最古の社の一つとされています。
中世には白坂大明神と称し、今地元では白坂神社と呼ばれているが、延喜式・神名帳、
河内国大縣郡宿奈川田神社の論社である。
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和川を渡る
国豊橋から
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渡りきって
西町地蔵尊
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河内国分駅で知人と合流
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石川を渡り土師ノ里駅前へ向かう
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鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成
出土したもの  円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することが
できます。仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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允恭天皇陵古墳(市野山古墳・いちのやまこふん)
市野山古墳
(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳
群を構成する古墳の1つ。宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみさ
さぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。近くに国府八幡神社、唐櫃
山古墳、長持山古墳、衣縫塚古墳などがある。
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※允恭天皇
允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代
天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。5世紀の天皇。雄朝津間稚子宿
禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴
史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、
履中天皇、反正天皇の同母弟である。皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ。
稚渟毛二派皇子の女) 第一皇子 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ) 皇太子、第一皇
女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろ
ひこのみこ)、第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)、第二皇女 軽大娘皇女
(かるのおおいらつめのみこ)、第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)
第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)、第三皇女 但
馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)、第四皇女 酒見皇女(さかみ
のひめみこ)

大水川遊歩道・・・大水川散策公園
藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川・大水川(おおずいがわ)の堤防
上にある散策公園で、大阪外環状線を境に、北は翠花堤苑(すいかていえん)、南は
彩花堤苑(さいかていえん)と命名しています。 延長約3,000mの緑道には、桜や色と
りどりの花を咲かせるバラ園、四季の移り変わりを感じさせる球根植物(スイセン・カ
ンナ・ヒガンバナ)、花をつけると数百mの白い帯となる雪柳など、四季おりおりにジョ
ギングやウォーキング、散策に訪れた人々の目を楽しませています。
津堂城山古墳へ向かう
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此の続きは、
11月30日昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺- 2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。 
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、津堂城山古墳・八幡神社~
津堂城山古墳・八幡神社
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁に
より「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定
されている。また国の史跡に指定されている。前方部は南東を向き、二重の周濠が
墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳
の全長は400m以上になる。これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみら
れ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代
には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。
明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に神社に建立す
る石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴
式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。
そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。
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津堂八幡神社
沢田八幡神社、 古室(こむろ)八幡神社、土師里(はじのさと)八幡神社、 津堂八幡神社
の四社は江戸時代に誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊 を勧請したものとされて
います。
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津堂城山古墳・八幡神社をあとに
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産土神社
室町時代に神宮寺として再建され、祭神を牛頭天王としていましたが、現在は産土神
社として素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っています。本殿は一間社流造で、主要部分は創建
当時の状態をよく留めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として貴重です。絵馬
も必見です。
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小山善光寺
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する善光寺屋敷にありましたが、織田信長に
よる河内攻めの戦火で焼失したため、現在地に再建されました。 長野善光寺の元祖と
いわれる伝説があり、寺に伝わる「善光寺参詣曼荼羅」からうかがうことができます。
本尊は長野善光寺と同じ一光三尊の阿弥陀如来像で毎年4月24日にご開帳されます。
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雄略天皇陵古墳へ向う
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雄略天皇陵古墳
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代
天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおは
つせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇
とも。また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王
武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉
名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土
の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とす
る説が有力である。
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藤井寺駅へ向う
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阿倍野キューズモール
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湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋 甘太郎へ向かう
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甘太郎
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2次会はジャンカラで
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11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-1

12月1日         11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-1
                    近鉄駅フリーハイキング 約7㎞
此の日は、K場さん・O村さん・M村さん・I 田さんと私の5名でワイワイガヤガヤ歩いた
コース 近鉄駅フリーハイキング 安堂駅受付9時30分~11時  10時5分集合
安堂駅(受付)~大和川付替え記念公園~道明寺線第二溝橋~柏原黒田神社~柏原
舟ふなだまり跡~三田家住宅~柏原神社~オガタ通り商店街~鐸比古鐸比賈神社~
観音寺~清浄泉~石神社~カタシモワイナリー祭り会場~皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ。此の日の私の万歩計は、17046歩で約12.6km歩いたことに・・・  
安堂駅(受付)で知人と合流、大和川付替え記念公園へ向かう
大和川付替え記念公園・中甚兵衛の像
大和川付替え工事
大和川は常に洪水の危険が付きまとい、古くは飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、
江戸時代になってからでも、元禄年間までの80年間で10数回もの洪水が河内平野を
襲っている。特に、1674年(延宝2年)から3年連続、計4回の洪水は未曾有の被害を
もたらし、その被害は河内平野だけでなく、大坂市中まで及んだという。
こうした被害をなくすため、1657年(明暦3年)ごろ、河内地域の農民から大和川を石
川との合流点から西に向け、直接、住吉、堺方面へ流す案を幕府に嘆願した。
この付け替え運動に中心的役割を果たしたのが、今米村(現東大阪市)の庄屋中甚兵
衛であった。これに対して付替え予定地に当たる村々は、激しく反対し、付替え反対の
嘆願を行い、河内を2分する様相であった。
幕府は、たびたび現地を検分、付替え以外の対策も検討され、河村瑞賢が下流の改
修工事を行った以降も洪水が続発し、抜本的な洪水対策にはならなかった。
このような事態を踏まえ、幕府は方向を転換、1703年(元禄16年)10月大和川の付
替え工事を正式に決定した。明暦3年の最初の嘆願から、付替え工事の決定まで、実
に約50年近くの歳月を要した。この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者
延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の
新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。
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道明寺線第二溝橋
柏原市上市2丁目の「第2溝橋」この溝橋のレンガ積みは、フランス積みで造られている。
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柏原黒田神社
柏原黒田神社(かしわらくろだじんじゃ)は、もとは塩殿神社と称し、塩土翁命を奉斎し
ていた。その創建年代は不詳。開運・交通安全の神として崇敬されたという。 昭和20
年(1945年)の戦禍で、社殿が甚だしく損傷。その後、復興が目指された。
その中で、北條鎮座の黒田神社、上市鎮座の春日神社の勧請と合祀が図られ、三社
の関係者が合議した。
昭和44年(1969年)6月、新社殿が竣工し、同年9月には両神社の御祭神を遷座合祀、
現社号に改称した。
御祭神は、塩土老翁の他、天御中主大神・天照大神・武甕槌神・経津主神・天児屋根
命・比売大神・八幡大神。
拝殿左手に石力不動尊が祀られ、他に、恵美須神社(事代主大神)がある。
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柏原舟ふなだまり跡へ向かう
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柏原舟ふなだまり跡
現在は児童公園になってる柏原舟ふなだまり跡地とその石碑
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柏原市の三田家住宅裏の船着場址
三田家住宅
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柏原神社
入口には注連柱、参道脇に「村社柏原神社」と記された社号標、参道途中に鳥居が
立ち、境内の途中に小川が流れ、神橋と石段参道があります。境内前面は旧大和川
の河床だったようで、この段差が河岸段丘跡なのだそうです。
参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中
に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は
担ぐこともなくなったそうです。
御祭神:宇迦之御魂神、境内社:若宮社
創建年月は不詳ですが、1700年頃に滋賀県の白髭神社からの勧請かと思われます。
この社の御祭神は宇迦之御魂神ですが、滋賀県・白髭神社の御祭神は猿田彦命で、
「大阪府全志」にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せし
を、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の
村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀
するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社「倉稻魂命」を合祀。」とあるようです。
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水路沿いを
オガタ通り商店街へ向かう
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オガタ通り商店街
全長約800mに及ぶJR柏原駅と近鉄堅下駅を結ぶ通りにもなっている商店街です。
昭和26年設立の商店街で ワイングラスを逆さにした様な街灯のシェードが面白い。
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鐸比古鐸比賈神社へ向かう
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此の続きは、
11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-2 として
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続きは、鐸比古鐸比賈神社~
鐸比古鐸比賈神社
祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石
別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国
でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:2
78m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151年)
とされるが、実際の年代は不明。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていた
が、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の
再建。
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観音寺へ向かう
溜池
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観音寺・ 智識寺跡
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝謙
(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時とし
ては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機となっ
たいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建されることはな
かった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが奈良・
平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえるだけに貴
重な物といえる。観音寺の麓にある石神社の境内に智識寺の東塔の礎石が残されてい
る。この心礎の柱穴の径は約1.2mあり、このことから、塔の高さはおよそ50mはあった
と推定されるとのことである。
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清浄泉(浄井戸)へ向かう
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清浄泉(浄井戸)
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、
生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くか
ら親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸
を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。
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石神社
知識寺東搭礎石有り
主祭神石姫皇女 - 宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后である。配祀神石長姫命、熊野権現
石神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置する。 麓
の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿がある。日本三代実録には貞観9年
(867年)2月に官社に列せられたという記述があり、延喜式神名帳では小社に列している。
江戸時代に入ると太平寺村の氏神として信仰され、熊野権現社と称していた。かつて、この
辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があった。 聖武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を
往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。 智識寺には大きい廬舎那仏があり、これ
を見た聖武天皇が東大寺大仏造営を発願されたといわれている。 その後、智識寺は室町
時代ごろに廃れたとされる。
境内にある大きなクスノキは、周囲約6m・高さ約16m以上の大木で、樹齢700~800年と
推定されており、大阪府指定天然記念物となっている。
境内社務所横には、智識寺の東塔の礎石があり、大阪府の文化財に指定されている。礎
石の柱穴の直径が122cmあり、かつては神社の手洗い石として使用されていたようだが、
現在は柵で囲われている。
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カタシモワイナリー祭り会場
500円で赤又は白ワインの試飲有り
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皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ向かう

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