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11月27日の馬見丘陵公園と26日の総合防災訓練

11月28日        11月27日の馬見丘陵公園と26日の総合防災訓練
                   馬見丘陵公園の皇帝ダリア&紅葉
皇帝ダリアを見に行く時間が無く、今日になってしまいました。少し時期遅れの感が・・・
紅葉はまだまだ此れからも見頃だと思われた。
口腔外科の帰りに馬見丘陵公園に寄り道して撮って来た。
皇帝ダリア
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紅葉
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集いの丘
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皇帝ダリア
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集いの丘
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紅葉
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紅葉・・・ポイプロ投稿写真
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11月26日・・・ポイプロ投稿写真
        我が町の総合防災訓練に参加して・・・
煙体験
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AED体験
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11月24日の京都・東山もみじウオークー1

11月27日     11月24日の京都・東山もみじウオークー1
             JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と2人で参加、最高のハイキング日和となり、素晴らしい紅葉散策
だった・・・
参加者232人、此の日の私の万歩計は、26299歩で約17.5km歩いた事に・・・
コース JRふれあいハイキング 京都府ウオーキング協会主催 参加費300円
集合場所が京都駅中央口駅前広場(東側)から当日、途中の五条公園へ変更。
京都駅~五条公園(受付・スタート)~五條大橋~鴨川河川敷~お池橋~岡崎公園
(昼食)・平安神宮~動物園横~南禅寺前~永観堂前~哲学の道~法然院~銀閣
寺前~後二条天皇陵前~京大前~今出川通り~出町柳駅前~加茂大橋~同志社
大~今出川駅(解散)~地下鉄10分 → 京都駅 近鉄で帰途に・・
五条児童公園をスタートして
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五条大橋を渡って鴨川河川敷遊歩道を歩く
五条大橋
「五条通」の鴨川に架けられた「五条大橋」は、平安時代末に牛若丸(源義経)と弁慶
が出会ったという伝説で知られる橋。
現在の五条大橋のたもとに「牛若丸と弁慶の石像」
五条大橋の西詰には、京人形風に作られた「牛若丸と弁慶の石像」が建てられている。
ただ・・・、現在の「五条通」は当時の「六条坊門小路」に当たり、平安時代の五条通(五
条大路)は、清水寺から清水坂を下り鴨川を渡って松原通へとつながる道だったという。
したがって、牛若丸と弁慶が出会ったのは現在の「松原橋」ということになる。

鴨川河川敷遊歩道
鴨川の河川敷が現在のように美しく整備されるようになったきっかけは、昭和10年の集
中豪雨で鴨川が氾濫したこと。このため河川の大改修工事によって高水敷が整えられ、
緑地化して運動広場や芝生地がつくられたのです。堤防上には当時のサクラやマツ、カ
エデ、ムク、エノキなどの老並木が残り、水辺に遊ぶ人々の姿を見守っています。
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三条大橋?
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御池橋で上へ上がって岡崎公園へ
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大鳥居が見えて来た
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チンチン電車展示品、奥に平安神宮の山門が・・・
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岡崎公園(昼食)
1895年(明治28年)の内国勧業博覧会跡地に、市の公園として開設された。美術
館、図書館、ロームシアター京都、動物園などがある文化ゾーンとなっている。又、
運動場でテニス、野球を楽しむ市民も多い。
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昼食後に平安神宮を少し
平安神宮で銘菓展に遭遇ししばし鑑賞
平安神宮
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧
業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は
実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買
収に失敗。1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われ、当時は郊外であった
岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。
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工芸菓子の展示も・・・
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そろそろ集合してスタートの時間・・・
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岡崎公園をスタート、
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京都市動物園横を通り、南禅寺前へ
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此の続きは、
11月24日の京都・東山もみじウオークー2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、南禅寺前~
南禅寺前
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南禅寺
今からおよそ2500年の昔、「苦悩の全てを離れた境地」に達したいという、大いなる
願いのもとに出家した、北インド釈迦族の悉達多(シッダルタ)太子は6年間の苦行
ののち、菩提樹下に坐禅すること8日目の早暁、天空に輝く明の明星を仰いだ刹那、
星と一つになって光り輝く我が心を感得し、ついに悟りを開かれました。
「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す」(不思議だ、ふしぎだ、
この世に存在する全てのもの、仏でないものは何もない)という大歓喜の叫びをあげ
られ、ここに「有情非情同時成道、草木国土悉皆成仏」の大安心(だいあんじん)が確
立されたのでした。時に太子35歳の12月8日のことでした。この日を成道の日とし、
以後太子は仏陀(ぶっだ---覚れる者)・如来・釈迦牟尼(釈迦族出身の聖者)・釈尊など
と呼ばれることになります。このように釈尊(仏陀)の坐禅による悟り=正覚・仏心を根
本として説かれた教えが仏教です。
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南禅寺前を通り
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永観堂前を通り
永観堂
本尊(国・重文)みかえり阿弥陀像
永観堂の正式名称  聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺(しょうじゅらいごうさん むりょう
じゅいん ぜんりんじ) 第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称される。
貞観五年(863)清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う。宗派は、浄土宗西山(せいざん)
禅林寺派。宗祖は法然上人(源空)。
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哲学の道へ
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哲学の道を通り
哲学の道
南は永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水
に沿った散歩道です。京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工
の水路です。 哲学の道は、疎水の西側に散歩用の石畳が敷かれ、日本の道百選
にも選ばれている散歩には最適の道です。
南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散歩す
る人を和ませてくれます。京都の哲学者、西田幾多郎がこの道を思索にふけりなが
ら散歩していたことから「思索の小径」と言われていました。その後、西田幾多郎の
愛弟子田辺元や三木清らも好んでこの道を散策したことからいつしか「哲学の道」と
も言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と銘々されました。
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法然院へ
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法然院(ほうねんいん)
京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本
山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式
名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。
別称には「本山獅子谷法然院」がある。
寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来
するという。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されて
いる。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境
内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
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銀閣寺前へ
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銀閣寺前を通り
銀閣寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江
戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没
後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
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後二条天皇陵前を通り
後二条天皇(ごにじょうてんのう)
鎌倉時代の第94代天皇(在位:1301年3月2日 - 1308年9月10日)。諱は邦治
(くにはる)。大覚寺統の天皇である。
後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華
門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。
後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから
実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統に
よる両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多
となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存
在することになった。
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京大前を通り
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今出川通り
出町柳駅前~加茂大橋を渡り
左が鴨川、右が高野川
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同志社大前、京都御所前を通り
今出川駅(解散)~地下鉄10分 → 京都駅~近鉄で帰途に・・

京都駅~近鉄電車で帰途についた・・・

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11月21日のぽっくり寺参拝と三室山&竜田川公園の紅葉-1

11月26日       11月21日のぽっくり寺参拝と三室山&竜田川公園の紅葉 
                   歩こう会特別企画(紅葉) 歩程約7㎞
此の日の参加者は40人、私の万歩計は、17600歩で約13km歩いた事に・・・
王寺駅前(受付・スタート)~神岳神社(かみおかじんじゃ)~三室山(みむろやま)~
吉田寺(きちでんじ)参拝~龍田神社~竜田公園~竜田城跡~王寺駅(解散)
次週、11月28日が歩こう会の例会で、けいはんな公園紅葉散策を予定しており、竜田
公園の紅葉散策は、近場での紅葉散策の保険のようなものだったが、吉田寺での念仏
講体験と三室山と竜田公園周辺の素晴らしい紅葉散策に皆さん満足した様子の一日
でした・・・
志都美駅
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王寺駅西友前&新王寺駅前
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神岳神社(かみおかじんじゃ)
神岳神社
神岳神社は、三室山の中腹に鎮座する神社で境内の縁起には聖徳太子が斑鳩
宮造営の際に飛鳥の産土神をこの地に安置し、太子之勅願所として祭祀されて
いたといわれます。本尊の地蔵菩薩像と聖観音菩薩像は融念寺(恵宝殿)に安
置されています。
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三室山(みむろやま)
三室山は、標高82mの小さな山で、古来より神の鎮座する山とされており、神南備
山とも呼ばれます。平安時代の歌人・能因法師が
     「嵐ふく 三室の山の もみち‘葉は 竜田の川の 錦なりけり」(歌碑)と
詠んでいることでも知られ、春には300本のソメイヨシノが山の半分を覆い桜の名所
ともなっています。
此処には、能因法師の歌と在原業平の竜田川の歌が・・・
     「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」歌も・・・
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吉田寺へ向かう
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吉田寺(きちでんじ)
吉田寺
吉田寺は、清水山を号とする浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来像(奈良県下
で最大)で多宝搭とともに国の重要文化財に指定されています。天智天皇の勅願
により恵心僧都(源信)が開基し、恵心僧都が母親の臨終の際、祈願した衣服を着
せかけたところ安らかに往生したと伝えられており、御本尊に祈ると腰から下の世
話をかけずに往生できるといわれることから「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
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龍田神社
当社の神使は鶏。手水鉢に鶏の像が置かれている。
聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、
守護神として本宮の分霊を勧請。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。
ただし、法隆寺創建以前から祀られていたとする説もある。
明治以前は法隆寺から当社へ別当をおき、例祭には30人の僧侶を遣わして法会が
行われていたが、明治になって神仏分離により、法隆寺から離れ、龍田大社の摂社と
なったが、大正十年県社に列し、翌年、龍田大社から分離独立した、
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金剛流発祥之地碑
能楽の金剛流は,大和猿楽4座(結崎・円満井・外山・坂戸)の一つ「坂戸座猿楽」が
ルーツで、ここ斑鳩の里を発祥の地とする。 大和4座は、大和一円の大寺に所属した
猿楽座で、外山座と結崎座は 現在の談山神社に、円満井座は興福寺に、坂戸座が
法隆寺に属したといわれ、後にそれぞれ 観世座・宝生座・金春座・金剛座と呼ばれる
ようになった。
坂戸座は 坂戸孫太郎氏勝を流祖とし、6世の三郎正明から「金剛」を名乗った。華麗・
優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」などとも
呼ばれる。豪快な芸風で知られた 7世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖
とされる。
江戸初期に金剛流から喜多流が分派し“四座一流”と呼ばれるようになった。
この発祥碑は、斑鳩町制施行50周年を記念して、1997(平成9)年に建立された。
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竜田公園(昼食)
竜田川は、在原業平が
  「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」(歌碑)と
詠むなど古くより紅葉の名所で、今は遊歩道が整備された都市公園です。
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足元には色とりどりの落ち葉
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龍田城跡へ向かう
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龍田城跡
室町時代に龍田氏の館があったとも云われる。 慶長6年(1601年)大和国に2万
4千石を領して入部した片桐且元によって陣屋が築かれた。 且元は間もなく摂
津国茨木に移り、且元が没すると孝利が継いだ。 孝利没後は且元の四男為元
が継いだが1万石に減封され、元禄7年(1694年)断絶となった。

龍田城跡~王寺駅(解散)
先頭で旗を持って先導してたので休憩してた時のみ写真撮影だった為、写真が少ない・・・
歩こう会終了後は、王寺の餃子の王将で小宴&反省会?皆さんと別れてバスで帰った。

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11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-1

11月23日     11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-1
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
此の日は最高のハイキング日和、知人のO村さん、I田さん、M村さんと4人で参加した。
近鉄駅フリーハイキング 安藤駅受付9時半~11時 集合9時50分 ワイン1杯500円
安堂駅(受付)~大和川河川敷~天湯川田(あまゆかわた)神社~史跡高井田横穴公
園・歴史資料館~観音寺~鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社~オガタ通り商店
街~カタシモワイナリーぶどう園~石(いわ)神社~安堂駅(解散)
此の日の私の万歩計は、22984歩で約17km歩いたことに・・・
志都美駅
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安堂駅()受付・スタート)~天湯川田(あまゆかわた)神社
天湯川田(あまゆかわた)神社~史跡高井田横穴公園・歴史資料館
天湯川田(あまゆかわた)神社
景行18年、勅命にてこの地に宮柱を建て神地、神戸を定めた。天平勝宝8年(756)、
孝謙天皇が河内国知識寺を参拝、弘仁式の当時から官社であつた。明治5年(187
2)村社 社名も天湯川田神社と旧に復す。
天平勝宝8年(756)、孝謙天皇が河内国知識寺(柏原市太平寺にあり)の南行宮に来
られた時、天皇は知識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六カ寺を巡拝された。このなか
の鳥坂寺は天湯川田神社のある丘陵の上に遺構がみつかつている。現在の社殿はそ
の塔跡の部分に立つている。鳥坂寺は鳥取氏の氏寺あり、当時は氏寺である鳥坂寺と
近接して、氏神の天湯川田神社もあつて、ともに鳥取氏からあつく崇拝されていたことと
思われる。
中世6月7日の祭礼に神幸するところを比叡の森といつたという。ここには山王権現社
があってあつたが、ここが大宮川田明神の旧殿のあつたところと伝へてゐる。比叡の森
が現在どこにあるかは不明である。「現在の末社山王神社は比叡の森にあり、川田明
神の旧社地と伝えている」と記載されているが、現在山王神社は本殿すぐ右手に鎮座
しており不詳。当社は、和泉国鳥取郷から移ってきた鳥取氏が、鍛冶・製鉄作業の守
護神としての天湯河棚命を祀ったものと思われる。
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史跡高井田横穴公園へ向かう
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史跡高井田横穴公園
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史跡高井田横穴公園・歴史資料館~観音寺
歴史資料館
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観音寺へ向かう、大阪市街地が見える
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観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝
謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時
としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機
となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建される
ことはなかった。観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は
不明であるが奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺
品ともいえるだけに貴重な物といえる。
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観音寺横の展望台?
展望台の上と下
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観音寺~鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社
鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社へ向かう
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鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社
鐸比古鐸比賣神社は、大阪府柏原市大県にある神社。延喜式神名帳に記されている
式内社で、旧社格は郷社。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、
鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られてい
たが、中世には現在の地に遷されたといわれている。
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此の続きは、
11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-2 として
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          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、鐸比古鐸比賣神社
の境内で紅葉を見ながら昼食~
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鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社~オガタ通り商店街
オガタ通り商店街~柏原駅前
柏原駅前
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柏原駅前~カタシモワイナリーぶどう園
カタシモワイナリー
明治初期、創業者の父、高井利三郎によってブドウ栽培に適した大阪平野の堅下(カ
タシモ)を開墾。大正元年、創業者高井作次郎がやっとのことでワイン醸造に成功。
その後、質の高いワイン造りに生涯をかけました。今もその伝統を引き継ぎながら日々
研鑽を重ねております。自社農園では除草剤を使用せず減農薬に取り組み、可能な限
り有機肥料を使用した栽培を行っております。平成13年より、ジャパニーズグラッパの
製造に着手。平成15年には、ベルギーにてモンドセレクション銅賞を受賞。平成16年度
には「優良ふるさと食品中央コンクール」において農林水産大臣賞をいただき、平成25
年には「がんばる中小企業・小規模事業者300社」(経済産業省)に選ばれました。

カタシモワイナリーぶどう園
事務所でグラスを入手しないでぶどう園へ行った為、ワインを飲む事が出来なかった?
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カタシモワイナリーぶどう園~石(いわ)神社
石(いわ)神社
延喜式神名帳に記されている式内社で、通称・熊野観音ともいわれ、三代実録に「清和
天皇貞観9年、河内国大県郡石神預官社、此の地の生土神」とあります。旧社格は郷社
です。境内案内によると、かつて、この辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があり、聖
武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を往来する際にこの地を訪れ、智識寺を含めた、
山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、鳥坂寺の六寺に礼拝礼仏され、智識寺にあった大き
い廬舎那仏に感動された聖武天皇は、東大寺大仏造営を発願されたといわれています。
その後寺は室町時代ごろに廃れたといいます。社名の由来となったと思われる御祭神の
石姫命は、宣化天皇の皇女で、欽明天皇の皇后となられた方です。また、石長姫命は、
大山祗神の娘神で「岩のように長久に変わることのない女性」という意味だそうです。
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石垣の組まれた入口には目を見張るような大きく勢いのいいご神木の大楠が聳え、鳥居
を潜ると左手に社務所があり、参道の石段を登ったところに社殿が造営されています。
社務所脇柵内には、聖武天皇の東大寺大仏造営のきっかけとなったと伝わる、智識寺の
東塔(大阪府文化財指定)の礎石があります。
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石(いわ)神社~安堂駅(解散)
安堂駅 → 五位堂駅へ帰り、バスで自宅へ
五位堂駅
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11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-1

11月23日     11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-1
                昼飲み会ハイキング大阪城~天王寺へ
11月17日の昼飲み会参加者は5人、ハイキング参加者は3人、K場さん、M吉さんと3人で
約10kmの紅葉散策、紅葉散策の後は湯処・あべの橋で汗を流して昼飲み会へ合流・・・
此の日の私の万歩計は、26285歩で約19.4km歩いたことに・・・
ハイキングコース  大阪城~天満橋~八軒屋浜~高津宮~天王寺  歩程約10㎞
森ノ宮駅~大阪城公園(NHK前~京橋口)~大坂橋~川崎橋~天満橋~八軒屋浜~中之
島公園(昼食)~八軒屋浜~榎大明神~高津宮~天王寺公園(13:30頃)⇒湯処・あべの橋
14:50にJR天王寺駅で待合せて、居酒屋「甘太郎」で昼飲み会で盛り上がった・・・
志都美駅~森ノ宮駅
森ノ宮駅~
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大阪城公園(NHK前~京橋口)
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大坂橋~
大坂橋(おおさかばし)は、大阪市の寝屋川と府道石切大阪線を跨ぎ、大阪城公園と
毛馬桜之宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋。大阪市中央区大阪城と都島区片町
1丁目の間を結んでいる。橋の南側には日本経済新聞大阪本社と旧大阪砲兵工廠
化学分析場跡がある。
橋の名前の由来は、1925年、東横堀川の浚渫中に「大坂橋 天正13年」(1585年)の
銘が刻された擬宝珠(ぎぼし)が発見されたことにちなんでいる。この「大坂橋」が当
時どこに架かっていたのかは不明である。
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川崎橋
川崎橋(かわさきばし)は、大阪市北区天満と都島区網島町を結ぶ大川に架かる自転
車・歩行者専用斜張橋。 国土交通省が全国的に整備を進めている大規模自転車道の
ひとつ、北大阪サイクルライン(大阪市北区中之島~大阪府吹田市万博記念公園)の
大川を渡る地点に架かる。浪速の名橋50選選定橋。昭和53年度の土木学会田中賞を
受賞。橋名は、かつて架橋地点にあった渡船「川崎渡」から採られている。
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天満橋・大川沿いをライオン橋迄
天満橋(てんまばし)は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。
難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天
満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいる。
大阪では珍しい2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。
天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。大阪市
営地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過している。
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難波橋(なにわばし)・・・ライオン橋とも呼ばれる
難波橋は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。
大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋である。
中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を
分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれ
ている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華
橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが
108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕
府が管理する公儀橋とされた。
黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(ライオンの石像、天 岡均一作)が左右両側に有る為、
「ライオン橋」とも呼ばれている。
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中之島公園・バラ園
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天神橋の下、中之島公園で(昼食)
天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、
大阪市北区天神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永
11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に
浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上
からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちた
らこわいな」と童歌に歌われた。
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中之島公園の先端の噴水
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噴水が噴出した
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八軒屋浜
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたな
べのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国
の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山
への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたことや、遷都
等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港地としての機能は
近世以降も残ることになる。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるように
なり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川
舟運の要衝として栄えた。
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此の続きは、
11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、熊野街道~
熊野街道~榎大明神
熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ
と通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良
県、和歌山県、大阪府に跨る。
熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。
紀伊路(渡辺津 - 田辺)
小辺路(高野山 - 熊野三山、約70km)
中辺路(田辺 - 熊野三山)
大辺路(田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮 - 熊野三山、約160km)
これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地
の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的
景観」)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。
熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残ってい
ることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だか
らである。
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶
民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、908年(延喜7年)の
宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、1281年(弘
安4年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた。
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御
幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより京
都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を
行っている。源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した。
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太閤(背割)下水見学施設
豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。
豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。町づくりにあたっ
ては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であったので、道路整備と同時
に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。
東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、その
道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水溝は「背割
下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の大阪は、この太閤
(背割)下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が町割りの基本となっていました。
現在でも実際に使用されている太閤(背割)下水を地上に設置したのぞき窓から自由にご覧い
ただけます。
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榎大明神
•第二次世界大戦の大阪大空襲の際、この榎木大明神のところにも猛火が迫ってきた。しかし
不思議なことに火は榎木大明神の前でぴたりと止まり、そこより東側一帯は焼失を免れた。
•御神木が立っている。樹齢約650年。楠木正成(くすのきまさしげ)が植えたともいわれる。
•白蛇を祀っている。
1988年頃、枯れそうになったそうですが、ある樹医さんの延命施術のおかげで助かったそうで、
今もなんとか元気でやっておるようです。ちなみに、この木、実はエノキじゃないんだそうです。
榎木大明神という名前なので、てっきりエノキかと思っていましたが、実際はエンジュだそうです。
樹医さんに診てもらった際に、エンジュだと鑑定されたそうだが、昔からの馴染みで今もエノキさ
んと呼び続けているらしいです。
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熊野街道~高津宮
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高津宮
高津宮(こうづぐう)の縁起は、平安初期の(貞観8年)清和天皇の勅命により、仁徳天皇の旧
都の遺跡を探索し、現在の大阪城付近を社地と定め社殿を築き、仁徳天皇を主神として祭っ
たのを創始としている。
以後皇室を始め時の幕府等の度々の造営寄進を受け、浪速津の守護神として信仰を集めて
きた。1583年(天正11年)豊臣秀吉の大阪城築城に際し、「比売古曽社」があった現在地に
遷座し今日に至っている。
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真言坂~生国魂神社
真言坂
真言坂(しんごんざか)・・・天王寺七坂の一つ
生國魂神社の北側にある南北の坂。かつては真言宗の寺院が六坊あった。
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※天王寺七坂(てんのうじななさか)は、大阪市天王寺区の上町台地西側(夕陽丘地区)に
ある7つの坂の総称。
北から順に、真言坂(しんごんざか)生國魂神社の北側にある南北の坂。かつては真言宗の
寺院が六坊あった。源聖寺坂(げんしょうじざか)坂の下に浄土宗・源聖寺がある。口縄坂(く
ちなわざか)愛染坂(あいぜんざか)坂の上に勝鬘院(愛染堂)がある。清水坂(きよみずざか)
清水寺の北側にある。天神坂(てんじんざか)安井神社(天神(菅原道真)が祀られている)へ
通じる坂。逢坂(おうさか)一心寺の北側の国道25号線の坂。

生国魂神社
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在
の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石
山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神
霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである
難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体
もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久
太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても
崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代
表的な古社の1つである。
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愛染坂(あいぜんざか)
坂の上に勝鬘院(愛染堂)がある。坂の横に大江神社が有る。
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大江神社
大江神社(おおえじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。四天王寺の鎮守である四
天王寺七宮のひとつ。祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命。
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境内奥にパワースポット?
当神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作と考えられ
ている。その昔、狛虎の奥に毘沙門天を祀る堂があり、虎は毘沙門天を護るとされている。狛
虎は元々は阿吽で1対をなしていたが、吽形の方が明治初期に某寺に持ち出されてしまったと
言われている。現在の吽形は2003年に再建されたものである。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが供えられ
ていることがある。また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札がある。
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愛染堂
愛染堂(勝鬘院)  あいぜんどう (しょうまんいん)
日本最初の社会福祉施設、施薬院として建立
西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王
寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与
えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大
であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。
施薬院から勝鬘院へ
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお経を人々
に講ぜられていたため、そして勝鬘経に登場するお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の
仏像が本堂に祀られているため、後にこう呼ばれるようになりました。主な堂塔として、金堂
(府の指定文化財)と多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。
勝鬘院から愛染堂
正式名称は勝鬘院ですが、金堂に愛染明王が奉安されており、また愛染明王信仰の普及と
ともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されています。
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谷町筋・・・前方にあべのハルカス
あべのハルカス
2017年現在、日本で最も高いビルであり、日本初のスーパートール(高層ビル・都市
居住協議会の基準による300m以上の超高層建築物)でもある。
建築規模は高さ300m、延床面積21万2,000m2、地上60階・地下5階(SRC・S造)で
ある。2011年2月から地上工事が始まり、2014年3月に竣工、同年3月7日にグランド
オープンした。工事中の2012年8月時点で高さ300mに到達し横浜ランドマークタワー
(高さ296m)の高さを抜き、「日本一高いビル」の称号が大阪に移った。
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天王寺公園(13:30頃)~⇒湯処・あべの橋
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋「甘太郎」
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11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1

11月21日      11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1
                 11月度 歴史探訪の会
天気良く、ハイキング日和にも係らず参加者は13人、やはり遠距離がひびくのかな?
此の日訪れた須磨は、西国と畿内を結ぶ要地にあり、奈良時代には須磨の関が置か
れ、平安時代には「源氏物語」に見られる様に貴族の隠棲の場所にもなりました。平安
時代末期には源義経による”逆落とし”で有名源平合戦(一ノ谷の合戦)の舞台にもなり
ました。江戸時代には西国街道を多くの人が往来し、松尾芭蕉や与謝野蕪村などが須
磨を訪れた記録が残っています。又、須磨の地名の由来は、六甲山系の鉄拐山や鉢
伏山が海の近くまで迫り平地の「スミ」にあたる事、山の西で垂水区との境を流れる境
川が古くは摂津と播磨の国境であった事より、隅っこの「スミ」が訛って「スマ」になり、
色々な漢字が当てられた様だが、現在の「須磨」になった、との説があります。
今回のコース
JR須磨駅改札口(10時集合)~村上帝社~関守稲荷神社~現光寺~平重衡捕われ
の松~須磨寺~須磨寺公園(昼食)~松風村雨堂~綱敷天満宮~JR須磨駅(解散)
此の日の私の万歩計は、13531歩で約10km歩いたことに・・・
志都美駅
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JR須磨駅舎から海を
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JR須磨駅&須磨海岸
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村上帝社&琵琶塚
平安時代の末期、琵琶の名手であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたい
と思い、都を発った。須磨迄来た夜に村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝
えたので、唐に行く事を思いとどまり、琵琶の名器「獅子丸」を此処に埋めて都に帰って
行った。此の伝承に基づいて土地の人が村上天皇を祀ったとされる。
能の「絃上」は此の伝承を題材にしたもの。師長が琵琶を琵琶を埋めたという塚は一分
が残っている。
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関守稲荷神社
関守稲荷人社は此の辺りにあった「須磨の関」の守護神として祀られたと伝えられて云
います。「須磨の関」は大宝令に定められている摂津の関の事で、天下の三関(伊勢・鈴
鹿の関、美濃・不和の関、越前・愛発(あらち)の関)に次ぐ重要な関でした。境内には源
兼昌の歌碑があります。 百人一首   源兼昌(78番)
        淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に  いく夜寝覚め ぬ 須磨の関守   ...
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現光寺(源氏寺)
正式な名称は藩架山現光寺 正式な名称は藩架山現光寺。「源氏物語」の須磨の巻の舞
台と伝えられている事より光源氏の住居跡といわれ、元は源氏寺とも呼ばれていた。江戸
時代には松尾芭蕉が此の寺に泊まったとも言われ、境内には三段切の名句「見渡せば眺
むれば見れば須磨の秋」の句碑が立っている。
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平重衡捕らわれの松跡
1184年の一ノ谷の合戦で源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の軍と戦った平重衡(平清盛の五
男)は戦いに敗れ、退却しようとしたが範頼の郎党に生け捕りにされた。捕えられた重衡は
近くに有った松に腰を掛けて無念の泗を流した。これを見た村人が哀れに思い酒を差し出し
たところ、重衡は大変喜び 「笹ほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまでのむこそ濁り酒な
れ」と詠んだと伝わる。平重衡はその後鎌倉に送られたが、重衡に焼き討ちされた南都の
強い要求により南都に引き渡され、木津川の畔で処刑された。
駅舎の角にある
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須磨寺へ向かう
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須磨寺
真言宗須磨寺派の本山で、正式名称は上野山(じょうやさん)福祥寺ですが一般的に須磨寺
と呼ばれています。平安時代に漁師が和田岬の沖で見つけた聖観音像を聞鏡(もんきょう)上
人が此の地に移したのが始まりとされています。一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛
愛用の「青葉の笛」、平敦盛の首塚(首塚は須磨浦公園にあります)、弁慶の鎧、義経腰掛け
の松等、源平ゆかりの重宝や史跡があります。又、境内には松尾芭蕉、正岡子規等文人の句
碑や歌碑等が有ります。
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※平敦盛
平清盛の弟、経盛の末子で笛の名手と伝わる。愛用の「青葉の笛」は敦盛の祖父平忠盛が鳥
羽上皇から賜ったものと言われる。一ノ谷の合戦で源氏方の熊谷直実に討たれるが、直実は
敦盛が我が子と歳の変わらぬ若武者であった事から一度は見逃そうとするが、泣く泣く敦盛を
討った。直実は此れをきっかけに出家したと言われる。
此の続きは、
11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、須磨寺途中~
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源平の庭
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敦盛首塚
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須磨寺公園(昼食)
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松風村雨堂
平安時代の公家で、歌人でもある在原行平が光考天皇不興をかい須磨に左遷された際に多
井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」と「村雨」と名付けて愛しました。
行平が都に戻った後も二人は行平を慕い続けて庵を結び行平の無事を祈ったと言われ、現
在のお堂がこの庵の跡と伝えられています。
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綱敷天満宮へ向かう
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綱敷天満宮
菅原道真が大宰府に左遷される途中、風雨を避ける為に須磨に一時上陸した際に、土地の
漁師たちが漁網の大網で円座を作り休息して頂いたとの言い伝えがあります。
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北海道の名付け親
「北海道」名付けの親である松浦武四郎さんが納めた宝鏡があります。 二十五霊社と
は「北海道」を命名した松浦武四郎の定めた天神社25社を指します。
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JR須磨駅(解散)
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11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-1

11月17日   11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-1
               朝日&五私鉄リレーウオーク 歩程約13km
今回は知人と3人で「朝日・五私鉄リレーウオーク」と「みなみかわち歴史ウオーク」合同企画
の「日本最古の官道 竹内街道と 聖徳太子と古代天皇が眠る 王陵の磯長谷を巡る」ハイ
キングに参加、参加人数は脅威の4141人、太子町の狭い道路では人間の渋滞迄体験も・・・
アップダウンの多い長距離(13km)ハイキングで少し疲れたが気候に恵まれとても良かった。
私の万歩計は、29130歩で約19.6km歩いたことに・・・
今年、平成29年4月に日本遺産認定!日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」
平成29年4月5日に開催された日本遺産審査委員会(文化庁)の審議を経て、『1400年に渡る
悠久の歴史を伝える日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」』が、日本遺産に認定されま
した。大阪府内では初めて、奈良県内では3件目の認定となります。
<タイトル>1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~
<ストーリーの概要>
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このことから、推古
天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内街道・横大路)は、太
陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。中
世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な
表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹
内街道と横大路(大道)なのである。
※日本遺産
日本遺産は平成27年度から文化庁が「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝
統を語るストーリー」を認定する制度です。今年度は全国から79件の申請があり、17件が認定
されました。
11月12日のハイキングで感じた事は、小野妹子墓?以前は大勢の参拝者?達で賑わった様
な痕跡(トイレや休憩所など)残っているが、今はこの様な企画でも無い限り寂れて荒れている?

コース  近鉄 朝日・五私鉄リレーウオーク&みなみかわち歴史ウオーク合同企画
上ノ太子駅~聖和台第1公園(受付・スタート)~妙見寺~用明天皇陵~太子町役場(トイレ)~
スーパー~孝徳天皇陵~竹内街道歴史資料館~道の駅・近つ飛鳥の里・太子~大道旧山本家
住宅~池~観音堂~科長神社・金原大明神~小野妹子墓~二子塚古墳~推古天皇陵~敏達天
皇陵~西方院~推古天皇皇太子聖徳太子墓・叡福寺~聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅
此の日の私の万歩計は、29130歩で19.6㎞でした・・・
志都美駅
葛城山~二上山
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柏原駅ホームから
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上ノ太子駅ホーム
急行が臨時停止して此の人出・・・
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上ノ太子駅~聖和台第1公園へ向かう
ブドウ園やみかん園の横を通る
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聖和台第1公園が見えてきた
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聖和台第1公園(受付・スタート)
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用明天皇陵へ向かう
正月桜(10月桜とも)が咲いていた
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妙見寺
日本最古の官道竹内街道に蘇我馬子が創建した河内の国最初の霊場とされる妙見寺
推古天皇6年(598年)蘇我馬子が創建したと伝えられ、七堂伽藍を有する大寺で、河内の
国最初の霊場である。南北朝の乱の兵火で被害を受けて焼失するが、寛門年間(1661~
1673)僧浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。
妙見寺HPより
曹洞宗(禅宗)、本尊は十一面観世音菩薩立像
曹洞宗開祖、道元禅師様は、『ただひとえに利行にもよほさるるなり』 と示され、自分自身
がいかされていることを意識し、自分本位ではなく、他人の気持ちを考え行動していく利行
(利他行)の実践をしていくべきだと説かれております。妙見寺も利行の実践を行い、慈し
みの心を持ち、皆様に愛される、開かれたお寺作りを目指して日々精進してまいります。
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竹内街道
用明天皇陵へ向かう、人間が渋滞・・・
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用明天皇陵・・・用明天皇は聖徳太子の父親
第三一代天皇(在位585~587)。橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)の漢風諡号(し
ごう)。欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって,物部守屋と蘇
我馬子が対立した。585年9月5日、聖徳太子の父にあたる用明天皇が即位しました。
大和朝廷が日本の大部分に関して安定した支配権を確立したのは、継体天皇とその子
の欽明天皇の時代と考えられます。その後は欽明天皇の子の敏達天皇が立って、神
道勢力と新興の仏教勢力の争いや、また隣の朝鮮半島での争いなどはあったものの、
比較的平和な時代が続いていました。その敏達天皇が亡くなった後、まだ子供の彦人
皇子は若かったため敏達天皇の弟の橘豊日大兄皇子つまり用明天皇が後をついだも
のと思われます。そして彦人皇子が皇太子になったようです。(明確には書かれてない
が日本書紀の用明紀に1ヶ所だけ彦人皇子のことを太子と書いた箇所がある)
しかしこの用明天皇は即位してわずか1年半で疱瘡に罹り亡くなってしまいます。そして
その後継を巡って物部一族と蘇我一族の全面戦争が勃発、これを制した蘇我が崇峻天
皇を立てますが、従順ではなかったため更にこれを暗殺して蘇我一族の栄光の時代で
ある推古天皇の御代がやってきます。
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太子町役場(トイレ)~スーパー

孝徳天皇陵
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟
王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは
軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意
見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改
新の事業を進めた。すなわち大化2 (646) 年正月1日詔を出して,班田収授,租・庸・調
の制などを定めた。同年都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみ
や) に移したが,この宮は長安京に模した日本で最初の都城である。間人皇女を立てて
皇后とした。
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竹内街道歴史資料館
竹内街道は堺市大小路[おおしょうじ]を起点とし河内平野を東進する。三国ヶ丘、金岡
を経て松原市に入る。羽曳野市古市で東高野街道と交差する。このあたりから南東に
向きを変え太子町を通過。 竹内峠を越えると当麻町(現・葛城市)に入る。竹内街道は
長尾神社がゴールで全長26km
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公園で昼食
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昼食後、道の駅へ向かう
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道の駅・近つ飛鳥の里・太子
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山本家住宅へ向かう
ラフランスか?
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大道旧山本家住宅
大道旧山本家住宅は、わが国最古の国道とも言われる竹内街道の沿道にたたずむ
「かやぶきの古民家」で、大和棟の形態をよく残し、大和と堺を結ぶ街道沿いの歴史
的景観を特徴づけるものとして「国登録有形文化財(建造物)」となっています。周辺
には道しるべや伊勢燈篭などが残されており、かつて経済活動や巡礼にと人々の
ゆきかった、かつての面影を今に伝える格好のスポットとなっています。
大和棟の主屋と北西に連なる入母屋造・桟瓦葺きの離れからなり、東側には蔵を
配置しています。その構造手法から江戸末期と推定される主屋は、茅葺きの切妻
屋根の両側を本瓦葺きとし、内部はドマ、ザシキ、シモミセなどを配する典型的な
民家で、離れには大正元年(1912)の棟札も残ります。
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科長神社(しながじんじゃ) へ向かう
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今シーズン初の咲いてる皇帝ダリア
皇帝ダリア
成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられました。 別名:木立ダリア。
丈が3~4mにもなります。花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花
が茎の頂上につけます。晩秋の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻です。
霜に弱いですから、気温が3度以下の時は家に入れます。 また、夜、街灯の下
ではつぼみが付きません。暗い所に移動しましょう
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観音堂したの池
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池の向こうに「PLの搭」が見える
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観音堂
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此の続きは、
11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
           http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、科長神社~
科長神社(しながじんじゃ) ・金原大明神
科長神社は、平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ば
れる由緒のある神社で、級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつ
ひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神とも呼ばれています。社宝には神
功皇后が使用したと伝える雛形の小さな兜があります。
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金原神社
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小野妹子墓
小野 妹子(おの の いもこ、6世紀~7世紀、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。
子に毛人・広人がいた。冠位は大徳冠。『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位
十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文
言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏
の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。
一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子
とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこ
の大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘
老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に
繋いだものと想定されるが、定かではない。
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二子塚古墳へ向かう
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二子塚古墳
推古天皇陵の南東200メートルに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた
双方墳という珍しい形式を有しています。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横
穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布しています。また
蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められ
ています。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言
い伝えがあります。
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推古天皇陵・・・推古天皇は聖徳太子の伯母
第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号(しごう)。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊
屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇が蘇
我馬子に殺されると,推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い,飛鳥文
化を現出。欽明天皇の第三女で名を額田部皇女という。576年に敏達天皇(異母兄)の皇
后広姫の薨去にともないその後添えとなった。夫の敏達天皇が疱瘡の病で崩御し、つい
で皇位についた用明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので、587年の頃、崇峻天皇が用明
天皇の後をついで皇位についた。しかし、592年蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまと
のあやのあたいこま)に崇峻天皇は暗殺されてしまう。この後皇位をめぐって議論がたたか
わされ、額田部皇女が推挙されるに至ったが、額田部は再三にわたり固辞したという。しか
し群臣らの上奏が数度に及んでついに皇位につき推古天皇となった。わが国初めての女
帝の誕生である。
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敏達天皇陵へ向かう
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敏達天皇陵
第三〇代天皇、淳名倉太玉敷尊ぬなくらふとたましきのみことの漢風諡号しごう。欽明天皇
第二皇子。記紀では六世紀後半に在位。
敏達天皇は百済大井に宮を建てたとされているが、この宮については、①奈良県広陵町百
済説と②大阪府河内長野市太井説があり、定まっていない。
敏達天皇は息長真手王の娘広姫を皇后として、押坂彦人大兄皇子らをもうけたが、石姫皇
后が薨去したため、豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)を皇后に迎えた。敏達の時代は、高句
麗から使人が来朝し、また百済・新羅も調を奉じて来ており外交は絶えていなかった。そこ
で敏達は先帝の遺言すなわち、任那の再興を皇子・大臣らに諮ったという。後に百済に働き
かけて日羅に来朝することを求めた。日羅は国内の政を優先すべきと進言したとある。
後にこの日羅は暗殺される。日本の反対勢力によるものか、百済の日本との通交を望まな
い勢力によるものかは、わかっていない。いずれにしてもこれにより任那の再興は頓挫した。
国内ではあいかわらず崇仏派と廃仏派が争い、特に蘇我馬子と物部守屋の対立が激しく
なっていた。585年元興寺縁起によれば物部守屋・中臣勝海らが仏法破却を奏し、これによ
り仏像・仏殿・塔などが破壊され、さらに善信尼(鞍部村主司馬達等の娘=仏師として著名な
鞍造止利の叔母にあたる。)らは辱めを受けて処罰された。敏達は575年8月疱瘡の流行で
この世を去った。
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叡福寺へ向かう
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西方院
西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向
山、寺号は法楽寺。寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、
禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人
の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉
照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺
号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。
以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は
司馬達等の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の
豊浦寺である。
江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称
は西方院と改められた。
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推古天皇皇太子聖徳太子墓・・・(聖徳太子の伯母は推古天皇で父親は用明天皇)
聖徳太子
飛鳥時代の摂政。用明天皇の皇子。名は廏戸豊聡耳皇子。聖徳太子は諡名。上宮王
ともいう。おばにあたる推古天皇の摂政として政治を整備した。冠位十二階・十七条憲
法を制定。国史の編纂を行ない、小野妹子を隋へ派遣し国交を開き大陸文化導入に
努めた。特に仏教興隆に尽力し、『三経義疏』を著わし、法隆寺・四天王寺を建立する
など多くの業績を残した。推古30年(622)歿、48才。
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叡福寺
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とさ
れる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。山号は磯長山(しな
がさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、
聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之
太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)と
ともに三太子の一つに数えられている。
この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、
太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。叡福
寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と
母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることにつ
いては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇
の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたとい
う。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古
天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬さ
れたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの
住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、
聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、
このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代につい
ては諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。
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叡福寺から聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅へ
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11月10日の上牧町ささゆりウオーク-1

11月14日        11月10日の上牧町ささゆりウオーク-1 
                  健康上牧21計画推進事業
毎月10日は奈良県民健康の日、と言う事で我が町でも毎月10日に「ささゆりウオーク」を、
此れまでは、中々参加する機会が無かったが、この11月に参加、12月も参加できそうだ。
受付&スタートは、2000年会館前、家から歩いて15分くらいの所、9時~9時15分受付
コース  方向距離 約5km(約1.5時間) 次回12月10日は片岡城跡コース 約5.5km 
2000年会館前(受付・スタート)~滝川遊歩道~東洋シール側道~五軒家集落~雨乞い
地蔵~牧野史跡~葛城台~滝川遊歩道~2000年会館(ゴール)
私が初めて参加した、此の日の参加者は40人+ウオーキングスタッフ16人の合計 56人
いつもは80人位の参加らしい?今日の参加者はいつもの半分くらい出そうで40人・・・ 
2000年会館前に集合、向かい側に虹の湯
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さあースタート
滝川遊歩道へ向かう
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滝川遊歩道を東洋シール側道へ向かう
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東洋シール工場正門前で滝川を渡り道路を浜寿司の前迄
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川を渡り、又滝川遊歩道を歩く
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五軒家集落・雨乞い地蔵
※五軒家集落の雨乞い地蔵の昔話
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。
「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いしたらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、
村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだとい
う。この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さん
を引き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。その為か
どうか、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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神田池(じんでんいけ)の向うに二上山賀見える
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滝川のずーつと向こうに二上山が・・・
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※奈良のむかしばなし
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。
上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うまみ)丘陵は、古代、朝
廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜ける今の舗装道路も昔
は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
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滝川遊歩道を離れて牧野史跡へ向かう
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此の続きは、
11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、牧野古墳~
牧野古墳(国指定史跡)
広陵町の『牧野古墳(ばくやこふん)』は、石舞台古墳に次ぐ大きな石室を持つ、古墳時代
末期の巨大円墳です。
丘陵の奥部にある直径約60mの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴
式石室が開口している。玄室(げんしつ)の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道(せんど
う)の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る大型石室である。
玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前に
は組み合わせ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。
石棺は、ともに大部分が破壊されていたが副葬品は意外に多く残されていた。装身具類
は金環(きんかん)、金銅製山梔玉(くちなしだま)、ガラス小玉、粟玉(あわだま)が、馬具
は木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板
(かがみいた)と杏葉(ぎょうよう)等が二組分出土してる。武器は、銀装の大刀と400本近
い鉄鏃(てつぞく)があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と
総数58点の須恵器があった。
古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひ
とのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。
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石室入口、今日は中へ入れる
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墳丘からの眺め
二上山も
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墳丘を下る
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墳丘を下ると牧野古墳公園
文代山古墳 (ぶんじろやま) ・・・・の石棺の底石
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※文代山古墳
方墳(南北44m、東西40.5m)周濠あり(幅20mで各辺高低差あり)埴輪、葺石あり
此の古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石(竜山石製)が西方にある下水の
吐水口に転用されていたが現在、牧野古墳公園に移設されており見ることが出来る。
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葛城台へ向かう
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葛城台
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川遊歩道へ
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2000年会館前へ戻る(解散)
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中央公民館前を通り家へ帰る
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マンホール蓋のデザインは、町花のササユリ
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おまけ
我家の鉢植えの皇帝ダリア
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11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-1

11月11日      11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-1
                南生駒の役行者像と石の文化財巡り
コース  生駒市観光協会主催 生駒市観光ボランティアガイドが案内 歩程約6.5km
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~竹林寺~観泉寺~菊司醸造~南生駒駅(解散)
萩の台駅に12時30~受付13:00スタート  12:30~15:40頃解散 参加費用100円
知人と3人で参加、素晴らしい秋のハイキング日和?此の日は暑かった-参加者24人?
2班に分かれてスタート、我々3人はNOカード1.2.3で1班スタート、ガイドさんが 2名と
スタッフ1名の3人で 12名の面倒を見る班編成、多少アップダウンも有る変化あるコース。
ゴールの菊司酒造は以前、ハイキングで訪問した美味しいお酒の飲めるところ・・・
お酒もまわって、とても良いハイキング、此の日の私の万歩計は15976歩で約10.5km。
案内して頂いた、生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、有難う御座いました!
上牧服部台バス停
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近鉄生駒線王寺駅へ向かう
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近鉄生駒線王寺駅
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萩の台駅(受付・スタート)
事前に葉書で予約していたハイキング、スタート前に昼食のお握りをほおばって・・・
こんな感じでスタート
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お墓の前の六地蔵
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正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
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逆修の十三仏板碑
前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)のもの
で歴史が感じられる。
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※逆修
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。その為
に建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修 。

乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り入れようと、村人
に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。平成19年(2007)には
「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財に指定。生駒市萩の台の
石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなくなってしまった「村芝居」の
資料が展示・保存されている。館内には芝居用具や、舞台で使われた浄瑠璃本、練習
用の版本など、さまざまな資料が展示され、村芝居を中心に人々が集った、古き良き時
代を偲ばせる。
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小平尾 行者堂へ向かう
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富雄川を渡る
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小平尾 行者堂
お堂に役行者像
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祈求山 応願寺へ向かう
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祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月11
日の銘有り、石工伊行氏の作と考えられている。
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円福寺へ向かう
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此の続きは、
11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、龍華山 円福寺~
龍華山 円福寺
真言律宗、本尊は釈迦如来坐像。行基が開祖したと伝えられるが詳細は不明。本堂(重
要文化財)・桁行3間・梁間3間・一重・入母屋造りの鎌倉時代造立の和風建築。来迎壁に
十二天図を描く。境内には鎌倉時代造立の宝篋印塔(重要文化財)が2基あります。
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宝篋印塔(重要文化財)2基
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慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。
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生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定される
が詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所か
ら舎利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。平成9年に堂舎が整備される。
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境内奥の行者堂
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行基菩薩墓
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忍性菩薩墓
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
有里町の竹林寺境内にあります。 古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。
生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。 前方部を宅地で削られていますが、
推定全長60m、後円部の径は約45mあります。 生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と
考えられます。 一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、 生駒谷の古墳時代を解明する
うえでもたいへん重要な古墳です。
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青龍山 観泉寺へ向かう
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青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種子十三仏板碑など」が数多くある。
神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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境内奥の行者堂
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※神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験
道 の開祖とされている。

境内からの眺めが・・・生駒山山頂
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菊司醸造
かつて奈良街道の宿場町として栄え、300年以上の歴史を受け継ぐ造り酒屋。松尾芭
蕉が暗峠について、詠んだ句にちなんで名付けた辛口でスッキリとした味わいの「くらが
り越え しぼりたて純米生原酒」はおすすめ、スイカの奈良漬もおすすめです・・・・
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南生駒駅
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11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-1

11月10日    11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-1
                  近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km   
大和八木駅で知人3人と待ち合わせて4人で参加、前日に予約しておいた今井町へ迂回して
胡瓜奈良漬を入手、おふさ観音のバラ鑑賞へ合流、雨にも降られずゴールへ辿り着いた・・・
此の日の私の万歩計は、27219歩で約18.3km歩いた事に?迂回路は+1kmだったのに・・
久し振りに旧知?4~5年前にハイキングで知り合った4人で歩けて楽しいハイキングでした。
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和八木駅受付9時半~11時 10時集合で待合せ
大和八木駅(受付)~迂回路(今井町)~おふさ観音~三輪神社~JAまほろばキッチン~
奈良県橿原総合庁舎~竹田神社~阪門(さかと)神社~十市御縣座(とおちのみあがたに
ます)神社~新ノ口駅(ゴール)、私は此処から五位堂駅へ~そしてバスで自宅へ
志都美駅
曇ってて二上山が見えない
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飛鳥川沿いを通り今井町へ(此処までは正規のコース)
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迂回して今井町の中に入り予約してあった胡瓜奈良漬を購入して
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コースへ戻りおふさ観音へ向かう
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おふさ観音
おふさ観音は、高野山真言宗・別格本山のお寺です。
その本堂が建つ辺り一帯は、かつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる、大きな池でありま
した。時は慶安3年(1650)4月、ある日の早朝のこと。この地で暮らす「おふさ」という娘さ
んが、鯉ヶ淵のそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が、目の前に現れた
のです。おふささんは、池のそばに小さなお堂を建て、そこに観音様をおまつりすることに
しました。その観音様は、色々なお願い事をかなえてくださるとして、近くの村人たちに厚
く信仰され、大切にまつられました。やがて誰からともなく「おふさ観音」と呼ばれるように
なったといいます。
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此の続きは、
11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-2 として
                下記のメインブログへ詳細を投稿します。
             http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
おふさ観音~耳成山を眺めて~三輪神社へ向かう~
藤原宮跡と醍醐池の間を通り、左に耳成山と醍醐池、右に藤原宮跡
耳成山
標高は139.6メートルだが、山頂にある三角点の標高は139.2メートルである。大和三山の
一つで、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。
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※大和三山(やまとさんざん)
大和三山は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺(橿原市)にそびえる3体の
山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風土保存区域に指定、各山も歴史的
風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7月14日、国の名勝に指定された。
天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
畝傍山(うねびやま、199m)
耳成山(みみなしやま、140m)
万葉集では「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふ
らしき」(中大兄皇子、巻1-13)と歌われている。大和三山(の神)が神代に恋争いをしたとい
う歌である。この歌の「畝火ををし」を「畝火雄々し」と解釈し畝傍山の神は男神であるという
説と、「畝火を愛し」と解釈して畝傍山は女神であるという説とがある。この歌は、中大兄皇
子と弟の大海人皇子の額田王をめぐっての恋争いを大和三山に託したものという説もある。

藤原宮跡
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城京
遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に押し
進めた
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤
原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や
天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせ
た性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも
引き継がれていきます。
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醍醐池
藤原宮跡の真正面にある池。
藤原宮跡の正面入口の真向かいにある。往時から池だったのだろうか。このすごい立地と
名前。 池のほとりに万葉歌碑がある。あの有名な歌。

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山 (持統天皇)
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藤原宮跡&天香久山
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藤原宮跡&畝傍山
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秋の風景を楽しみながら三輪神社へ向かう
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三輪神社
西之宮の西端、橿原市膳夫町と同石原田町に接し、当神社の西側を北から旧中ツ道
が通っていたので、横大路と交差した地にあたる。旧村社で大物主櫛甕玉命を祭神とし、
社殿は東面する。もと内垣内にあった白山神社(祭神・菊理姫命)を合祀した。
本殿(春日造、鉄板葺、朱塗)と拝殿(入母屋造、瓦葺)のほか、石造狛犬一対、石鳥居、
金毘羅大権現(自然石)のほか七基の石燈籠、磐座らしい巨石などが境内にある。
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JAまほろばキッチンへ向かう
皇帝ダリアのツボミも・・・
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JAまほろばキッチン
この中でウロウロしたので歩数が伸びたのかな?
JAまほろばキッチンは、全国最大級の売り場面積を有する農産物直売所を中心に産
直レストラン、フレンチレストラン、フードコート等で構成しています。
生産者の顔が見える安全・安心な地場産農畜産物を消費者のもとへ届けるなど「地産
地消」の輪を広げていきます
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奈良県橿原総合庁舎
屋上庭園(昼食)からの眺めが良かった
2006年に閉校になった耳成高校の校舎をしっかりと耐震化などがなされた上で「橿原
総合庁舎」として利用されています。この屋上部分が『橿原総合庁舎 屋上庭園』として
無料公開されており、三輪山や大和三山、万葉歌の舞台となる土地が一望できる素晴
らしい展望スポットになっています。
橿原総合庁舎の屋上は、大和三山(畝傍、耳成、香具山)、多武峰、三輪山、二上山遠
くには高円山、若草山を眺望できる絶好のロケーションにあることから、庭園として整備
しています。また屋上から見える景色を読んだ記紀・万葉の詩歌を紹介しています。
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耳成山と後方左手に畝傍山
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奈良県橿原総合庁舎を後に竹田神社へ向かう
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竹田神社
寺川の西南岸に鎮座する。社叢の目立つ神社である。
仁徳天皇の御世、大和国十市郡刑坂川の辺に竹田神社ありと新撰姓氏録に記載さ
れている。『多神宮注進状草案』によれば本社は多神社の若宮とされている。
本社の左手にある大日堂は神宮寺の跡という。弘治元年(1555)に南都宿院仏師源
次・源四郎父子によって作られた大日如来坐を安置する。この像は昭和54年に盗難
に遭ったが、その後無事もどってきた。
境内に大伴坂上郎女の歌碑が有る。
          うす渡す竹田の原に鳴く鶴(たづ)の間なく時無しわが戀ふらくは
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阪門(さかと)神社
中町集落の中に鎮座する。周囲は住宅地で、小さな鎮守の森の中にある。
境内に由緒・創建時期等を記した案内はなく、詳細不明。
祭神、武甕槌神(タケミカヅチ)
明治24年(1891)の神社明細帳には、タケミカヅチ・斎主命(イワイヌシ)・天児屋根命
(アメノコヤネ)・姫大神とあり(式内社調査報告)、藤原氏(中臣氏)の祖神・春日四神
を祀るという。
大和志に“今、春日社と云う”とあるように、式内・坂門神社に比定される以前の祭神を
引きついたもので、式内・坂門神社本来の祭神かどうかは不明。
社殿は、中町集落の西寄りに鎮座し、東を向いた鳥居を入った先に拝殿(切妻造・瓦
葺)が、その奥、高い白壁に囲まれた中に本殿(春日造・銅板葺)が東面して鎮座する。
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十市御縣座神社へ向かう
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十市御縣座(とおちのみあがたにます)神社
橿原市十市町にある。北向きの入口を入り、左折すると広い境内。境内には末社が
多い。 創祀年代は不詳。天平二年(730)の『大倭国正税帳』に「十市御県神戸」と
あり、奈良時代から祀られていた古社。
大和国六御縣神社の一座として、創建された神社。皇室御料地に創建された、式内
大社なのだ。大和国六御縣神社とは、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六社。
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新ノ口駅へ向かう
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新ノ口駅(ゴール)→大和八木駅→五位堂駅と乗り継いで
五位堂駅では雨が降ってたが直ぐ止んで
五位堂駅~バスで帰った・・・・
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