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3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-1

4月3日         3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-1
                     近鉄駅フリーハイキング
此の日は快晴とはいかず花曇りの中を知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で歩いた、
此の日の私の万歩計は、24275歩で約14.5km歩いたことに・・・
コース     近鉄奈良駅東改札(9:30~11:00) 10時半集合
近鉄奈良駅東改札(受付・スタート)~興福寺・南円堂・中金堂・五重塔~春日大社・一の
鳥居・ムクロジの大木・参道・本殿へ~水谷神社~水谷茶屋・若草山~手向山八幡宮~
校倉造り~東大寺・三月堂・四月堂・二月堂・若狭井・大仏殿・正倉院・大仏殿・転害門(て
がいもん)~佐保川~聖武天皇陵・光明皇后陵・興福院l参道~佐保小学校~大仏鉄道
公園~佐保川堤防~新大宮駅(解散)~徒歩~JR奈良駅 → 王寺駅
志都美駅
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近鉄奈良駅東改札~興福寺へ向かう
興福寺・南円堂
南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。そ
のうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春
日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。創建以来4度目の
建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、
本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。
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※額塚・・・興福寺には山号がありません。
南都七大寺には不思議と山号がない為今まで気にも留めていなかったのですが、興福
寺にはそれなりの理由がある様です。比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる
山号はよく知られるところです。奈良の興福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が
付けられていたようです。そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれ
る額塚です。額塚のある場所は興福寺不動堂の南側です。

中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
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五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后
がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変
(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろく
じょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょ
う)を安置していたと伝えられます。その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃
に再建されました。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔で
す。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大
胆に取り入れた、大変に力強い塔です。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬
師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置します。
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
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春日大社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもので
ある。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社と興
福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。3月の春日祭や12月の春日若宮おん
祭の際には大きな榊が立てられています。
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※影向の松(ようごうのまつ)
春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育しているクロマツである。延慶2年
(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であったが、1995年(平成7年)に枯れ
たため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓抄に
よると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描
かれている老松の絵のルーツとされている。

参道脇のムクロジ
ムクロジはわが国では中部地方以西の山野に自生しており、春日山にも多く生えていま
す。幹の空洞から竹が伸びていて名物樹木になっているムクロジの巨樹。幹周4.58m、
樹高15.5m。
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仏教美術研究資料センターの枝垂れ桜
関野ホール
明治中期を代表する近代和風建築であり、和風と洋風、さらにはイスラム風の意匠も
取り入れた、とても美しい建築物です。奈良国立博物館が管理する『仏教美術資料研
究センター』(重文)は、1902年(明治35年)竣工の、西洋建築の構造と日本伝統の建
築様式を取り入れた、美しい近代和風建築です。当初は「奈良県物産陳列所」として、
奈良県の物産の展示・販売をおこなう施設として利用されました。設計は、建築史学
者であり、古社寺保存修理事業に尽力した「関野貞」(せきのただし)。東京駅舎や奈
良ホテルを設計した辰野金吾の弟子で、新薬師寺や法起寺の修理なども監督・・・。
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参道
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手水
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参道の苔むした灯籠
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春日大社
本殿へ入る前の枝垂れ桜
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春日大社
春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設
された神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は
官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。全国に約1000社ある春日
神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神
(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする
説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津
主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を
造営したのをもって創祀としている。

本殿の回廊
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本殿を出て祈祷所へ向かう
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水谷神社へ向う
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の下
社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時代か
ら幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛頭天
王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮花祭」として
親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る
人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、幹周6.55m、樹高
12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装し、
現在の姿に至っております。店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎ
が暑さを忘れさせ、 秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ねの山、
若草山です。若草山は、標高342m、面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には、
5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年1月には、若草山焼きが
あります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのにふさわしい行事です。
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土産物店
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手向山八幡宮
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)があ
る。天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺
の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の梨原
宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡
による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とさ
れる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園
がその跡ともいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分
離の際に東大寺から独立した。
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校倉造り
法華堂(三月堂)法華堂経庫(重文)です。2棟とも天平時代に建てられたものです。
※手向山八幡宮南側に建つ手向山八幡神輿庫。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月堂や
三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける「上院」エリ
アの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置にある建物(重要
文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈良時代
もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良時代周辺に建
てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大規模な改築を受けて
いる)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの貴重な建築と言える存在に
なっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ。 なお経庫は、かつては「校倉造」の代表建
築である正倉院の近くに設置されていましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした
後、江戸時代の元禄期になると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経
歴を有しています。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折
に、再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど南側の
位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じような建築様式で、やは
り奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

※東大寺
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録であ
る『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺
(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(7
28年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、
若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見ら
れる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このう
ち羂索堂は現在の法華堂(三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(74
1年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国
の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19
年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東
大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初
である。聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、
都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香
楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に
遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在
の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支
持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼
会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が
終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことで
あった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょ
う)」と呼んでいる。
※盧舎那仏の造立&『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間
のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたと
いう。とは言え造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

東大寺
三月堂(法華堂)
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構
とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくど
う)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が
行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であった
が、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建
築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築
が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。
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四月堂
東大寺の三昧堂は、「法華三昧会」が旧暦の4月に行われる為、一般に四月堂と呼ばれて
いる。創建は、1021年(治安3年)あるいは1067年(治暦3年)といわれ、現在の建物は、
1681年(延宝9年)の墨書銘がある。本尊千手観音(重要文化財)や阿弥陀如来像(重要
文化財)が安置されている。
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二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火
(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、
お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音
(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見
ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。魚を採っていて
二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音
さまに奉ったという、「お水取り」。
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若狭井
「お水取り」の井戸は閼伽井屋という建物の中にあり、当役の者以外は誰も入ることもうかがう
ことも出来ない。行列が閼伽井屋に到着すると咒師、堂童子等が中に入り水を汲む。これが二
荷ずつ、閼伽井屋と二月堂の間を三往復して、お香水が内陣に納められる。「お水取り」が終わ
ると閼伽井屋に下っていた練行衆等は再び行列を組んで二月堂へ戻り、中断していた後夜の
「時」が再開さる。
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此の続きは、
3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、大仏殿へ向かう~
大仏殿へ向かう
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※大湯屋(おおゆや)
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたのですが、文献での初見は平安時代に降り
ます。その後数回の被災・再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五重塔再
建と同じ時期-すなわち応永33年(1426)頃と考えられます。正面4間(11.7m)、側面4間
(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根は入母屋(いりもや)、東面の屋根
は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があり、この大湯屋で湯を沸かし、東の建
物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴したりしたと思われます。 内部に床を敷かず、
地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口径1.5m、胴径1.86
m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らないのですが、口径1.44mで
平安時代のものです。

大仏殿
創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調達で
きず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。そのため、創建時に11
間(けん、86m)あったが7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時
の壮大さがうかがえる。毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観相窓が開かれ、
大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。
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※講堂跡
東大寺講堂跡は、大仏殿の裏手にある芝生の広場。その昔、ここには大きな「講堂」が建っ
ていた。今は講堂の礎石(そせき)だけが残っていて、絶好のお弁当スポットです。東大寺と
いえば、奈良でも一番人気の観光スポット。でも、観光客でごったがえしているのは大仏殿
くらいまでで広い境内には意外と静かなエリアもあります。講堂跡もそのひとつ。周辺を通
る人もまばらで、講堂跡に寄る人はもっと少ないし、そのなかでも、ここが「講堂跡」というと
ころだと知っている人は、ほとんどいないんじゃないでしょうか。芝生が広がっているノビノビ
した広場には、柱が立っていた礎石が並んでいて、ベンチ代わりにちょうどいい感じ。ちょっ
と休憩したり、お弁当を広げたり、観光をサボって昼寝したりするのにおすすめのスポットで
す。たまにシカが通ったりしますが、講堂跡あたりにいる シカは、お弁当を狙って取り囲んだ
りしないようです。夏のサルスベリや秋の紅葉なども楽しめます。講堂は、昔のお寺の重要
な建物のひとつで、お経の講義や説法が行われる所。何千人ものお坊さんが勉強にはげん
でいたところで、今でいえば大学でしょうか。東大寺は日本のお寺の中心として建てられた
だけあって、東大寺の講堂は「日本の最高学府」。そんな重要だった建物も、何度も火事に
あって、戦国時代の火事で焼けたあとは建てなおされませんでした。
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正倉院
正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜ
くらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代
を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、
翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に
登録されている。元は東大寺の正倉(倉庫)だったが、1875年(明治8年)3月10日、収蔵されて
いた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれた。1881年(明治14年)4月
7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月
に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、第二次
世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁の
施設等機関である正倉院事務所が管 理している。
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大仏殿の大屋根
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転害門へ向かう
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転害門(てがいもん)
東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)
の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる
唯一の遺構(国宝)。 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。寺の西北にあるの
で「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保路門」とも呼ばれて
いる。「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入り、みちみち殺生が
禁止されたから、または、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行われるから「転害門」
と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこの門のところで手招きし
たから「手掻門」と書いたともいう。また、大仏殿落慶供養に参列した源頼朝を暗殺するために悪
七兵衛景清(平景清)が隠れていたため「景清門」と呼ぶともいう。
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佐保川
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう) - 756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武天皇の
第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月
15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会
うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢
37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇
(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇
子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤
原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天
皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正
天皇より皇位を譲られて即位することになる。聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する
長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:
県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即
位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は
光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自
害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長
屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四
兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が
入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人
の血縁の者である。天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官の
ほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事
に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっ
ている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭
仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、
難波京、紫香楽を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい
動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、
先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。天平年間は災害や疫病
(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建
立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加え
てたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平
城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后
の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、
新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れること
となった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは
藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍
内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してし
まい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初
の男性天皇となる。
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光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年)- 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、
奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である
藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とう
さんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。
皇族以外から立后する先例を開いた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階
である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。神亀5年(728年)、皇太子に立てられ
た基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平
元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその
後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の
藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天
皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に
葬られた。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を
行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創
設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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興福院l参道
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※興福院(こんぶいん)
奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。山号を法蓮山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創
立者)は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。創建について、寺伝では天平勝宝年間
(749 - 757年)和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。
『七大寺日記』(嘉承元年(1106年))には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされてい
る。また、護国寺本『諸寺縁起集』には、宝亀元年(770年)、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願
で創建されたとある。古くは興福院弘文院の2つの寺号が用いられ、本尊は薬師如来であっ
た。前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院と称したこと
から出たものと推測されている。

佐保小学校の枝垂れ桜
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大仏鉄道公園
大仏鉄道(正式名:関西鉄道大仏線)は、名古屋と大阪をつなぐ路線の一つとして、明治31
年4月に開業し、明治40年8月まで奈良駅・加茂駅間約10kmを運行していました。大仏鉄
道が廃止されてから100年が過ぎましたが、平成4年4月には大仏駅跡地付近に大仏鉄道
記念公園が設置され、大仏鉄道の面影を残しています。大仏鉄道記念公園は、奈良事務所
の南方約100mの佐保川沿いにあり、春4月には、しだれ桜の3大木が見事に咲き、たくさん
の人々が訪れます。
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佐保川堤防
佐保川堤・川路桜
佐保川は 若草山の東麓に発っし、奈良盆地の北部を西へ流れ、奈良市新大宮から 南に転
じ、大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川に注ぐ。佐保川の桜並木は 
全長5 キロ、 3000本が植えられている。この桜並木は 奈良奉行 川路聖謨(かわじ とし
あきら)が1946年1月から5ヶ月かけて 奈良の興福寺、 東大寺などの有力寺社、町の有力
者に呼びかけ 植えたものである。 現在 地元の 「佐保川を美しくする会」、「川路桜保存会」
の人々が 桜を維持管理している。 興福寺の五重の塔から 猿沢の池に降りる52段階段の上
に 川路聖謨(かわじとしあきら)植桜楓の碑( おうふうをうえるのひ )の碑がある。 
「桜も楓も 歳月が 経てば枯れるが、後世の人が 植えてくれるだろう。そうすれば 今日の遊
観の楽しみは百年の後までも 変わらない。それは後世の人も 私も 望むところだ。」・・・・
これが現実になっています。
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川路桜
江戸時代の奈良の名奉行、川路聖謨(としあきら)ゆかりの桜です。樹齢はかれこれ160年。
ごつごつした幹や枝は支えが必要ですが、風格があります。
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雨がぱらついて
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雨もやみ新大宮駅へ向かう
新大宮駅(解散)~私は徒歩で~JR奈良駅 → 王寺駅へ帰った

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