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5月3日の近鉄ハイキング・道明寺駅ー2

5月5日         3日の近鉄ハイキング・道明寺駅ー2
          大坂の陣「道明寺・小松山合戦まつり」西軍コース
コース 近鉄 道明寺駅フリーハイキング 歩程約9km
道明寺駅(受付)~道明寺天満宮~玉手橋~大阪夏の陣小松山古戦場跡碑
~市立玉手山公園~玉手橋~石川河川公園~碓井八坂神社~誉田八幡宮
誉田林古戦場址碑~薄田隼人兼相の墓~道明寺(尼寺)~道明寺駅(ゴール)
知人と3人で参加、暑くも無く寒くも無く?過ごし易い曇り空のハイキング日和・・
大坂夏の陣・道明寺合戦とは?
慶長20年(1615年)5月7日に徳川家康が豊臣氏の大坂城を攻め落とした
戦いが「大坂夏の陣」です。この戦いは大阪城近辺だけでなく、大阪府南部の
広い地域で繰り広げられました。5月6日の未明に豊臣方先人の猛将、後藤
又兵衛基次が河内国分に集結する徳川方の大群めがけて突入し、奮戦して
果てた「小松山の戦い」。次に石川を渡って進む徳川勢に豊臣方二番手の
薄田兼助が敢然と立ち向かい討死した「道明寺の戦い」。徳川方の伊達正宗
が勢いをそのままに、応神天皇陵の南から西へ回り込もうとしたところを豊臣
方三番手の真田幸村が果敢に応戦した「誉田の戦い」。この三つの戦いは
「道明寺合戦」と総称されます。
道明寺駅(受付)~道明寺天満宮~玉手橋~大阪夏の陣小松山古戦場跡碑
~市立玉手山公園~玉手橋のたもとで昼食迄については
       下記のメインブログへ投稿済みです。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2015-05-05
此処では
此の続きの玉手橋以降を・道明寺駅ー2 として掲載します。
玉手橋~石川河川公園~碓井八坂神社~誉田八幡宮・誉田林
古戦場址碑~薄田隼人兼相の墓~道明寺(尼寺)~道明寺駅(ゴール)
玉手橋
玉手橋(たまてばし)は、大阪府を流れている石川に架かる吊り橋。
1928年(昭和3年)当時の大阪鉄道(現:近鉄)が、道明寺村(現:藤井寺市)側に
ある道明寺駅から石川対岸の玉手村(現:柏原市)側にある玉手山遊園地への
通行路として設置した、が、現在は主に柏原市内の玉手山西側の地区から近鉄
道明寺駅を利用する通勤・通学者が利用している。2001年(平成13年)吊り橋
としては日本全国で初の国の登録有形文化財となった。
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   石川河川敷を歩く
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碓井八坂神社
八坂神社は、もとは「井徳院(いとくいん)」と言われた奈良時代の寺の鎮守
であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、延喜式神名帳
(えんぎしき じんみょうちょう)にも記されていないので、創建はおそらく平安
中期より以後と推定される。 現社殿は西面のもので、祭神は素戔嗚命(すさ
のをのみこと)(牛頭天王)となっていて、渡来系の神であることがわかる。
現在の碓井地区の名称は古代にあった「清泉唯井(せいせんうすい)」の井戸
から起こっている。碓井神社の東方50m附近一帯は奈良朝のころ僧「行基」に
よって創建されたという「井徳院(いとくいん)」があり、境内にあった碓型の井戸
からは良質の清水が湧き出していたらしい。その水は萬病によく利くとのことで、
遠方からも参詣者が多かったと伝えられている。

なにわの伝統野菜・碓井豌豆(うすいえんどう)発祥の地
明治時代に羽曳野市碓井地区にアメリカ合衆国から導入され、改良された
むき実用えんどう。小型でさやと豆の色合いが淡いが、甘みが強い。
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誉田八幡宮・誉田林古戦場址碑
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格
は府社。主祭神は応神天皇で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。社伝では、欽明
天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから
「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった
時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051年)、元の鎮座地から1丁ほど南
の現在地に遷座した。八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代
の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当
職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内
守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置い
た織田信長により、社領を全て奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、
社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元
を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏
滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
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誉田林古戦場址碑
誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和
年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となった所である。
すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間
で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり
誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山
稙長と義英との間で合戦のあとで和議となり、誉田八幡宮『社前の盟約』が結ばれ
たのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの
境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。
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薄田隼人兼相の墓
薄田兼相(すすきだ かねすけ)は、戦国時代の武将である。初名は古継。通称は
隼人正。小早川隆景、豊臣秀頼に仕えた。仇討ちや狒々(ひひ)退治の伝説で知ら
れる武芸者岩見重太郎と同一視される。前半生はほとんど不明。山城国または筑後
国出身とされる。小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、
叔父の薄田七左衛門の養子となって全国へ武者修行に出たとされる。帰参後は薄田
隼人と名乗るが、隆景の死後は浪人となり、のちに豊臣氏に仕官し、3000石を領した
(後に5000石に加増)。慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている。妹
に堀田一継室がいる(『寛政重修諸家譜』)。慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。
大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは
遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方から「橙武者
(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲り
を受けた。大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の
到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を
取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。討ち
取ったのは水野勝成の家臣河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢など
それぞれの家臣の説があり、はっきりしない。
大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている。
この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられて
きた。悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に
入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い、6年間そのように続けてきた。7年目に同
様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするもので
はない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃
から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が
死んでいたという。
天野橋立て敵討ちの場、岩見重太郎が父の仇として広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川佐衛門
の三人の仇討ちをしたと伝えられている場所です。岩見重太郎は、三人を追って丹後の
宮津に来ましたが、三人は重太郎を恐れて領主京極家に隠れていました。そこで、京極家
に乞うて仇討ちを許され、1632年9月20日天橋立の濃松において三人を討ち倒し、つい
にその本望をとげたと伝えられています。なお、岩見重太郎は薄田隼人と同一人とされ、
豊臣家の家臣であったが、大阪冬の陣では大いに戦って名をとどろかし、夏の陣で惜しくも
戦死したといわれています。この場所には、仇討ちの試し切りにしたといわれる石が現在も
残っています。
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途中で覗いたお寺?立派な大木が→間違いでした
道明寺天満宮の管理する大阪府指定の天然記念物 モクゲンジュでした
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道明寺(尼寺)
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ
鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、
後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真
の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
1575年(天正3年)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。
1872年(明治5年)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
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道明寺駅へ向かう
シャリンバイ、ジャスミンが咲いて・・
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おまけ
桑の大木に「桑の実」が・・・
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