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12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-1 

12月12日       12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-1 
                近鉄 酒蔵みてある記ハイキング
いよいよ始まる近鉄の酒蔵みてある記ウオーク、甘酒の飲める季節になりました。
此の日はひとりで参加、416番・・・先着1000人様に甘酒ふるまい有り
近鉄駅フリーハイキング 天理駅受付10時~11時  10時集合  歩程約10㎞
天理駅(受付)~市座神社~西山古墳~西乗鞍古墳~東乗鞍古墳~夜都岐神社
(やつぎじんじゃ)~天理観光農園~内山永久寺~石上神宮~天理参考館~稲田
酒造・甘酒ふるまい・試飲・抽選会(解散)~天理駅
日本酒の苦手な私が唯一飲める日本酒、天理の稲田酒造「稲天」、正月のお屠蘇
用に「稲天」純米吟醸酒を購入して帰った。何時もの事ながら甘酒も美味しかった。
此の日の私の万歩計は、19127歩で約14.1km歩いた事に・・・
志都美駅から葛城山二上山
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天理駅(受付)
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市座神社へ向う
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市座神社
参道の入口左側には丹波から遷されたという恵美須神社、また本殿の右側には妙
見社があります。創祀は不明ですが、事代主命を祀り、今も丹波市の名にふさわし
く市場の守護神として尊崇されています。
奧の境内は広く、一角には明治時代まで橋として使われていた大きな石が立てかけ
られており、この石は緑色をしており、もともとは古墳に収められた石棺の蓋でした。
橋として近代まで転用されていただけあって、とても大きなものです。今では面影が
ありませんが、近くには古墳がたくさんあったそうです。この石もその中の一つの古
墳で使われたものと考えられます。
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西乗鞍古墳へ向かう
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※西山古墳
杣之内町に所在する全長約190メートルの前方後方墳で、墳丘は3段築成だが、上段
を前方後円形、下段を前方後方形に築く独特な墳形である。前方後方形の古墳として
は、全国でも最大の墳丘規模である。年代は、4世紀に築造された古墳時代前期後半
の古墳である。国指定史跡。

西乗鞍古墳
杣之内町に所在する全長約118メートルの前方後円墳である。1981年の発掘調査で
は、古墳南側の濠が発見され、多量の埴輪が出土している。年代は、6世紀前半に築
造された古墳時代後期の古墳である。
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夜都岐神社の鳥居へ向かう(鳥居で左折)
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※東乗鞍古墳
杣之内町に所在する全長約75メートルの前方後円墳です。後円部には長さ9メートル
ほどの横穴式石室があり、内部には石棺が遺存しています。6世紀前半に築造された
古墳時代後期の古墳です。

夜都岐神社(やつぎじんじゃ)
夜都岐神社は、奈良県天理市にある神社である。旧社格は村社。夜都伎神社とも書
かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。式
内小社「大和国山辺郡 夜都伎神社」の論社である(他の論社は同市竹之内町の十
二神社と田井庄町の八剣神社)。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。
全国にある八剣神社との関係の可能性も考えられる。
祭神は、武甕槌命・姫大神・経津主命・天児屋根命。
乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400
m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1
社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられる。
乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当
地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳
があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われて
いる。春日大社との関係が深く、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌を献上して
いた。春日大社からは、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に下賜して使用
させる伝統があり、応永13年(1406年)には春日大社の第四殿を下賜されている(春
日大社文書)。また、寛正2年(1461年)4月6日には大乗院の尋尊が参詣に訪れてい
る(大乗院寺社雑事記)。現在の本殿は明治39年に春日大社から移された建物。拝殿
はこの地方では珍しい萱葺である。
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天理観光農園へ向かう
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正月桜?
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天理観光農園
天理市の観光名所「山の辺の道」沿いに立地。約1ヘクタールの園内に早生温州みかん
約800本が植林。みかん狩りがたっぷり楽しめます。カフェ、あわ餅つき、バーベキュー、
部屋の貸し出し等。利用方法は自由自在。ご相談下さい。
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内山永久寺跡へ向かう
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此の続きは、
12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-2 として 
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、内山永久寺跡~
内山永久寺跡展望台
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内山永久寺跡
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は天理市杣之内町にかつて存在した廃寺です。平安
時代後期の永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えら
れ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれます。しかし、明治年間の廃仏毀釈より徹底
的な破壊を受け、いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。
内山永久寺は院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、阿弥陀如来を安置して
いたとされます。創建時の年号によって永久寺と称し、その地が五鈷杵(ごこしょ)の形を
して内に一つの山があったので内山と号したといわれています。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、延元元(1336)年には後醍醐天皇も
吉野に行幸する際に当寺に立ち寄っています。室町時代には「大乗院寺社雑事記」にし
ばしば金剛乗院または内山永久寺のことが記載されています。寺領は最盛期には971
石に達し、境内は五町四方の広大な地域をしめたといわれます。江戸時代末期まで40
有余坊の伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳を敷き、参
詣者が常に絶えなかったといいます。元治元(1864)年には勤王派の絵師冷泉為恭(れ
いぜいためちか)も一時この寺に身を寄せた記録が残っています。
明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、明治9(1877)
年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞ
かれました。現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。貴重な仏
像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。
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石上神宮へ向かう
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石上神宮
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代
信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神
として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7
年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」
「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふ
つのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮
中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
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天理参考館へ向かう
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天理参考館
当館は世界各地の生活文化資料・考古美術資料を収集・研究・展示する博物館です。
各地の資料を通して、それぞれの地域に住む人々の生活や歴史を知り、お互いのここ
ろを理解することを目的としています。
当館は、1930年(昭和5年)、天理外国語学校(天理大学の前身)の中に設けられた海外
事情参考品室を活動のはじめとします。創設者の中山正善・天理教二代真柱は、天理
教を海外に広める人材を育てるためには言葉の習得だけではなく、現地の風俗・習慣
もあわせて学ぶことが必要だと考えられたのです。
そして現在では、約30万点にも及ぶ資料を収蔵する博物館となり、一般に広く公開して
います。2001年(平成13年)11月、当館は新築の建物が完成し、装い新たに再オープン
しました。収蔵資料の中から約3000点を「世界の生活文化」・「世界の考古美術」の2部
門にわけて展示しています。
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天理教本部
天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖
とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人
天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義に
は中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。
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稲田酒造へ向かう
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稲田酒造・試飲・抽選会
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすることをモット
ーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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天理駅へ向かう
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正月のお屠蘇用に購入
「稲天」純米吟醸酒 720mL
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12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-1

12月10日        12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-1
                  近鉄 駅フリーハイキング 
コース  近鉄 駅フリーハイキング 今里駅受付9時半~11時  9:40集合
今里駅(受付)~熊野大神宮~妙法寺~玉造稲荷神社~大阪城~難波宮跡~
三光神社~心眼寺~真田山公園~鶴橋駅(ゴール)
此の日野私の万歩計は、21418歩で約15.8km歩いたことに・・・
今里駅(受付)~熊野大神宮へ向かう
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熊野大神宮(くまのだいじんぐう)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)ほか五柱を奉斉する旧大今里村の氏神で、用明天皇
2年の創建と伝えられます。石山合戦の際、兵火にあいましたが再建され、元和(17
世紀前期)以降大坂城代就任と領内巡視の時は、必ず社参することを恒例とした社
で、熊野権現と称し、明治5年(1872)に現社号に改め、同44年(1911)旧東今里村
氏神八剣神社を合祀しました。
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妙法寺(みょうほうじ)
妙法寺は、正保2年(1645年)に日嚴上人(本興寺第二十二世)を開基と仰ぎ開創
されております。現住職日優まで三十一世代を連綿と法燈を継承して、実に350年
の歴史を有する法華宗の寺院であります。当山は他宗寺院のように山川に囲まれた
中にあるのではなく民衆の中にあり、市井において正しい教えである法華経を弘め
ねばならないという立場から山号は用いておりません。
創建当時には幹の周り1丈2尺、東西に張った枝の長さ10丈7尺、高さ3丈9尺とい
う「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、天保年間(1830年頃)には庶民
に通称「松の寺」と呼ばれて親しまれていたようです。
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今里一番街
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振り返って
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玉造稲荷神社へ向う
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玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に
改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を
敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願された
ところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8
年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。
大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の
大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲
荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたこと
が、史料に残っています。しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明
治4年氏子・崇敬者により再建。国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和
20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新
憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。
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森ノ宮 キューズモール
大阪府中央区にある「もりのみやキューズモールBASE」は、スポーツをテーマに
したエアトラックのあるとても珍しいショッピングモールです。
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大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西
の丸庭園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山
地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩
う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。
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此の続きは、
12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-2 として
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続きは、豊国神社~
豊国神社(ほうこくじんじゃ)
豊國神社は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。
京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京
都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、
豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊
臣秀長も配祀する。
現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区
中之島においての創建となったが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座された。
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大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築
された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(き
んじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)か
ら1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を
施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学
術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府による
ものであることが確認された。
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大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の
本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でも
あった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初
期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。『信長公記』
によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったと
いう。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備
していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の
変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただち
に美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、
豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡ととも
に焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め
再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠
点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。
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極楽橋から
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京橋口から
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西外堀
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難波宮跡へ向かう
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難波宮跡(なにわのみやあと) 昼食休憩
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、大阪市立大
学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難
波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲
が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法
で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)か
ら造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、
サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃ
くち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)
=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をお
こなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望するこ
とができる。
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三光神社(さんこうじんじゃ)
大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)
と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となっ
た。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後
神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。当神
社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事として六
月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ全
国各地からの参拝者が絶えない。
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善福寺・・・どんどろ大師
どんどろ大師 善福寺は、大阪市天王寺区にある真言宗の寺院である。 どんどろ大師は、
鏡如庵大師堂として江戸時代の宝暦年間(1751-1764)に開創されたもので、弘法 大師
を祀っている。 天保5年(1834年)、大坂城代として赴任した土井利位(としつぐ)が 弘法
大師を深く信仰し参拝していたことから、「土井様のお大師様」とよばれ、それが訛っ て
「どんどろ大師」となった。 明治42年(1909年)に、摂津国能勢郡木代(大阪府豊能町 )
から善福寺が当地に移転してきた。
「お弓 おつる 歌舞伎[傾城阿波の鳴門]どんどろ大師 門前の場」。 歌舞伎の演目の場
面となった場所。
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心眼寺(しんがんじ)
元和8年(1622)4月、白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立した
のを嚆矢(こうし)とする。境内地は幸村が戦捷(せんしょう)をおさめた大坂冬の陣の大
阪城出丸城郭跡で、幸村鎧掛けの松の木もあったが、昭和20年(1945)の大阪大空襲
により堂宇ともども焼失した。創建から寺の定紋は真田家家紋の六文銭とされ、山号は
真田山と称する。復興をみた現在の山門扉にも、定紋の浮彫が鮮やかである。
山門前に立つまんなおし地蔵尊が開運を導く地蔵として古来信仰を集めてきた。幕末
見廻組の武士で坂本龍馬らを襲撃した桂早之助・渡邊吉太郎の墓がある。
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真田丸顕彰碑
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興徳寺・・・ 隆法山 興徳寺  高野山 真言宗
聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建され、天平年間(729~749)
に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつと言われていますが、第二次世界
大戦の大阪大空襲にて現在の山門以外の諸堂を焼失したため詳細は不明です。元禄
年間(1688~1704)に作製された「大坂三郷町絵図」(大坂城天守閣蔵)では現在地にお
寺が存在していた事が確認できます。現在の本堂は昭和27年に再建。たくさんの方々
のご協力により、今に至っています。
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真田山公園
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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鶴橋駅(ゴール)

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12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-1

12月5日       12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-1
                   JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
コース JRふれあいハイキング 京田辺市観光ボランティアガイド協会主催 参加費300円
京田辺駅(9:35集合)~棚倉孫神社~甘南備寺~一休寺(酬恩庵)~薪神社・能楽発祥碑~
甘南備山・展望台(昼食)・神南備神社・白石・三角点~青少年野外活動センター~そよか
ぜ幼稚園~観世座発祥の碑~松井山手駅(解散)
此の日はまさに秋の素晴らしいハイキング日和に素晴らしい紅葉の森と史跡を散策出来て、
楽しい一日となりました。今日田辺市観光ボランティアガイドの皆さん、有難う御座いました。
此の日の私の万歩計は、23354歩で約17.2km歩いたことに・・・

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)
「棚倉」とは穀物を収蔵するに当たり、湿気をさけるための床を設けた倉庫をいい、養蚕に
も用いられた。筒城(綴喜)は古来から渡来人による養蚕の盛んな地域であり、その蚕は
貴重で「天の虫」ともいわれ、蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興り
ではないかとも考察されている。 境内には、本殿のほか、拝殿、絵馬殿、社務所、式場な
どの建物が並び、本殿手前右手にある石造燈篭は桃山時代の作である。 2年に1度の例
祭では、秋の収穫を祝って約30種の穀物や野菜などで飾られた「ずいきみこし」がくりださ
れる。高さ3m、1.5m四方、重さ約1トン、屋根に赤ズイキ、鳥居に青ズイキ、壁に大豆、
三度豆、玄米、小豆、頂上の鳳凰には南瓜や百日紅の花、他にも赤、青の唐辛子、赤な
す、たかのつめ、菊の花など全部で30種類ほどの野菜や穀物、乾物が飾りつけられ、神
々に五穀豊穣を祈願する。天香古山命(あまのかごやまのみこと)を祭神とする旧天神ノ
森の産土神で、元は天神社または天満宮とも称していたが、明治になって式内棚倉孫神
社と改めた。 本殿0は、一間社流造り桧皮葺であり、桃山時代の建築である。拝殿は入母
屋造りで、前後に軒唐破風を設けた桧皮葺の江戸時代中期を代表する建築である。 社務
所は元の神宮司であった旧松寿院で、現存する江戸末期の貴重な建物である。その他本
殿の右側にある四角形石灯籠は天正2年(1574年)刻銘があり、桃山時代の傑作である。
絵馬舎には白川芝山筆の「猛虎図」のほか絵馬十数面を掲げている。境内全域はクスノキ
やシイの常緑広葉樹が繁茂しており、文化財環境保全地区となっている。
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甘南備寺へ向かう
天井川の堤防を歩いて・・・
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甘南備寺(かんなびでら)
奈良時代に僧行基(ぎょうき)によって開創されたといわれている。甘南備山にあった甘南
備寺は、交通不便で保護も困難であったため元禄2(1668)年に現在の地に移された。もと
もと真言宗だったが、移転の際、黄檗宗に変わった。ご本尊である薬師瑠璃光如来坐像は、
比叡山の僧・慈覚大師の作と伝えられ、高さ86?、一木造り、重厚味のある藤原前期のもの
である。「耳石」といわれる穴のあいた石を備えて病魔を退散させる風習がある。今昔物語
の「山城の国神奈比寺の聖人、法華を誦して前世の報いを知りたる話」 綴喜郡の飯岡の西
北に甘奈比寺という山寺があり、一人の僧が住んでいた。この僧は日頃からこの寺を去って、
都の大寺に行きたいと思っていた。ついに行こうと決心した夜の夢に、この寺の薬師如来が
老僧となって現れ、「汝の前世は、この寺の土中に住んでいたみみずで、法華経を毎日聞い
た功徳によって、人間に生まれ代ってこの寺で法華経を誦している。この寺に縁のある身で
ある」ことを諭された。そこでこの僧は、生涯この寺に留まったという言い伝えが残っている。
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一休寺へ向かう
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一休寺(酬恩庵)
とんちの一休さんのお寺として知られている酬恩庵(通称、一休寺)は、もとは妙勝寺といい、
大応国師によって正応年中(1288-1293)に禅の道場として草創されたのが始まりである。そ
の後、元弘の戦火にかかり荒廃していたものを六代の法孫にあたる一休禅師が康生2(145
6)年に再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵(しゅうおんあん)」と命名された。禅師は88歳
で自寂されるまでの晩年、ここを居とされた。  現在みられる本堂は、室町幕府6代将軍足
利義教により建立され、方丈や庫裏、唐門、東司、鐘楼、浴室は加賀藩主前田利常により
復興されている(いずれも重要文化財)。 四季それぞれに風情があるが、秋の紅葉の時期
は格別の趣がある。本堂 京都最古の唐様建築 足利義教(室町幕府第6代将軍)の帰依
により、1400年代に建立された。 内部に釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩が安置されている、
室町時代の代表的な禅宗建築で重要文化財に指定されている。
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薪神社へ向かう
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薪神社(たきぎじんじゃ)・能楽発祥碑
本殿に残された棟札によると、薪神社の星野天神・住吉・武氏の三社は、天正年間(1573~
92年)に再興された。寛永6(1629)年には、薪村と大住村の山論を板文にして奉納。明暦元
(1655)年、薪村八幡宮・天満宮の縁起と宮座の定めをあらため、寛政6(1794)年に神社を
造営、明治40(1907)年、天神社と八幡社を合祀して、薪神社とした。境内には、もともと甘
南備山頂にあり、月読神が仮の姿をとって現れたと伝わる石も祀られている。また、『能楽
発祥の碑』と刻まれた石碑も建てられている。
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能楽発祥碑
「能楽は薪能即ち金春能に始まり、次に宝生能 観世能は大住に、金剛能は大和に発祥
した。昭和61年11月文学博士志賀剛」との碑文。
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甘南備山へ向かう
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此の続きは、
12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
            http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、甘南備山~
甘南備山
この山は、いわば京田辺の主峰であり、「神南備」「神無火」などともいわれ、「神が隠れ
る場所」という意味を持つ山である。 甘南備山は山頂が二上形式になっており、東の「
雄山」が221.0m、西の「雌山」が201.6mである。山頂にある展望台からは京田辺
市が一望できる。 かつて平安京が定められるとき、この山の白石を南の基点として、
北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建
設したといわれている。現在では、ハイキングコースも設置され、山歩きをする人々が
四季折々の自然を楽しむ場となっている。
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コシアブラ 「こしあぶら」・・・山菜の女王?
秋の紅葉時には、葉の色が黄色から透明な白色に変り、 その姿は秋の紅葉の中でも
ひときわ美しく映えます。
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ソヨゴ
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イロハカエデ
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ラクウショウ
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展望台(昼食)
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神南備神社
神南備神社(かんなび じんじゃ)は、神の山とされた甘南備山(かんなべやま/かんな
びやま、標高221m/217m)の頂上付近に祀られている。 
甘南備山全体を神として祀る。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、また、月
読神ともいう。地神として、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、相殿に大国
主命(おおくにぬしのみこと)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)。また、天神(あま
つかみ)として高皇産霊尊(たかむすびのみこと)、天照大神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこ
と)の三神を祀るともいう。
式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「綴喜郡 十四座 大三座
小十一座」の「甘南備神社」に比定されている。  
創建、変遷の詳細は不明。
古来より、甘南備山は「神の依りつく山」とされ、山全体を神として信仰された。
弥生時代、甘南備山と呼ばれる。豊穣と雨乞いの祈祷の場として信仰されていたという。
平安時代、天平年間(729-749)、行基は神宮寺の甘南備寺を開創したともいう。
771年、第49代・光仁天皇の時、神封(しんぷう)一戸を寄進される。
794年、第50代・桓武天皇による平安京造営に際して、甘南備山は京都の中軸線として
朱雀大路建設の目印にされたという。
927年、平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中「綴喜郡 十四座 大三座 小十一
座」に、「甘南備神社」とある。
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白石・三角点
794年、第50代・桓武天皇による平安京造営に際して、甘南備山の白石が京都の中軸線
として朱雀大路建設の目印にされたという。
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青少年野外活動センターへ向かう
青少年野外活動センターでトイレ休憩
そよかぜ幼稚園
七棟の園舎に造形作家の新宮晋さんの制作した風見がある 雑創の森学園 そよかぜ
幼稚園(京田辺市)
※風をテーマに建築された風車と風見がまわる学園施設は、昭和54年’79年の「吉田
五十八賞」を頂きました。
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能楽・観世座発祥の碑
観世座発祥の碑
松井山手駅から 南西に1km。 田辺市役所方面から松井山手駅方面 に抜ける“山手幹
線”の南側に 消防署(田辺市消防署北部出張所)があるが、その裏(南) 側の道が 虚空
蔵谷川を越える付近に,30cmほどの距離で向かい合っている2つの 石碑がある。
一つは「観世座発祥の碑」と書かれた新しい碑、もう一つは「山神」という 古い石碑。
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松井山手駅(解散)
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11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1

12月1日       11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1
                11月度歩こう会 例会  紅葉散策 約7㎞
今月は歩こう会ハイキングを2回、何れも紅葉散策、28日は今月2回目の歩こう会で、
京都精華町のけいはんな記念公園紅葉散策をメインに周辺の歴史ある寺社を巡る。
好天に恵まれた素晴らしいハイキング日和、私の万歩計は、23377歩で約17.2km・・・
コース 
祝園(ほうその)駅(10時・スタート)~来迎寺(らいこうじ)・お千代と半兵衛の墓~釈
迦の池~稲植神社~畑の前公園遺跡の杜~精華大通り~けいはんな記念公園(昼
食・紅葉散策)~蓮台寺~祝園駅(解散)
祝園(ほうその)駅
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祝園(ほうその)駅~来迎寺(らいこうじ)へ向かう
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来迎寺(らいこうじ)
天平勝宝元年(749)、行基の開基といわれていますが、創建の古さを伝えるものは残って
いません。近松門左衛門の「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)で知られるお千代・半兵
衛の墓があります。
同寺は、京都の自然200選・植物部門に選ばれています。来迎寺のクスノキは丘陵地状の
境内に生育し、樹齢は不明ですが、幹周4.6メートルという巨木で、寺のシンボル的存在で
もあり、ここを訪れる住民に古くから愛されています。
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お千代と半兵衛の墓&供養塔
近松門左衛門の最晩年の世話物である「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)は1722年
(享保7年)に大坂で実際に起きた心中事件を題材にしたものだが、この物語の一方の主
人公であるお千代は山城国相楽郡上田村(現京都府相楽郡精華町植田)の大百姓島田
平右衛門の二女であったと伝わる。父平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、菩提寺であ
る来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。この墓は来迎寺に現存する。
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※大阪に有るお千代と半兵衛の墓(宝樹山銀山寺)
墓石には「一蓮托生 声応貞現信女/通月融心信士/離身童子」と刻まれている。この「離
身童子」は身ごもっていた子供のことであろう。
1722年(享保7年)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進
所で心中した。この心中事件は、直後に紀海音が「心中二つ腹帯」、近松門左衛門が「心
中宵庚申」(いずれも浄瑠璃)に、又「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色した。特に「新板宵庚
申」は大当たりし、そのため、世上に広く知られた心中事件となった。お千代は24歳で身
ごもっていた。
・近松門左衛門の世話物最後の作品
1722年(享保7年) 「心中宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)
八百屋の養子半兵衛は、もと武士の子。姑と折り合い悪い女房おちよが夫の留守中、勝
手に離婚されたことを知り、連れ帰るが、姑の手前、家に入れられず。板挟みになって夫
婦で心中する。

釈迦の池
過去帳などが残っていないので、詳しいことは解かりません。
今の来迎寺の前当たりも池の東側にあたり、大きく広がっていたと思われます。
池には、橋が架かっていたり、水辺には御堂なども建っていて、水面に映えていたので
はないでしょうか。
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稲植神社へ向かう
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稲植神社
稲植神社は今より、約550 年前の、室町時代中期に春日神社を勧請(かんじょう)され
たと伝えられております。(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)元来『上田の
社(やしろ)』という名の神社で、上田村のみの氏神であったのですが、その内南稲村
にも氏子が出来て、南稲村の『稲』と上田村の上を『植』に変えそれを合せて 『稲植神
社』と命名されたようです。
この神社は「元祇園」(京都八坂神社の元)と呼ばれて、明治以前は神仏習合の神宮
寺でしたが明治維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏習合を廃止し、明治二年に
新たに神社を再建した際にその寺(東福寺)を取壊したと云われています、それ以後、
水害や数々の災害に遭遇し、現在の社は昭和28 年から再建されたのです。
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畑の前公園遺跡の杜へむかう
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畑の前公園遺跡の杜
発掘調査は昭和59 年~60 年度(1984~85)に実施され、弥生時代中期の集落跡に
奈良時代の邸宅跡が重なるという複合遺跡が発見された。同時に、周辺部から古墳時
代後期の円墳も見つかった。
調査後、遺跡跡は埋め戻され、畑ノ前公園(2 万平方m)として整備された。遺跡部分
は約3千平方m。
①弥生時代中期(西暦前100 年~西暦100 年)の集落跡
10 棟の竪穴式住居跡(半円形の点線)が見つかったが、同時期には3~5 棟の住居
が建っていたと想定されている。
②古墳時代後期(6 世紀前半~7 世紀前半)の古墳群
7基の横穴式石室を持つ小規模な円墳(図面右の楕円形点線)が確認された。石室に
河原の石を使っており、長良川下流域で多数発見されている様式と類似している。
しかも同地は古代、美濃の国安八(あんはち)郡と呼ばれ、姉妹間郡とも表記された。
精華町には北稲ハ間、南稲ハ妻という集落があり、その類似性が注目されている。
③奈良時代(710~794)の建物跡
23棟分の柱跡(サイコロ状の黒点)が見つかった。何度か建て替えられ、規模が拡大
されていったようだ。 宅地東南隅からは深さ7m の井戸の跡が発見された。井戸枠の
下部に高さ3.5m、直径1.1mのヒノキの木をくりぬいた井筒が据え付けられていた。
柱跡が、奈良の都と同様に東西南北の方向に正確に並んでいること、他に類を見な
い1級の井戸を備えていることなどから、都に関係する身分の高い人の屋敷とみられ
ている。古文書には、当時このあたりに稲蜂間(いなはちま)という豪族が住んでいた
と記録されており、孝謙天皇(752~757)に使えていた稲蜂間宿禰仲村女(いなはち
まのすくねなかむらめ)に関係した屋敷ではないかと見られている。
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此の続きは、
11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-2 として
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続きは、けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)~
けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)
1 自然を大切にした水と緑のあふれる公園
●この公園は、自然との調和・共生を基本テーマに設計されました。
●南山城の代表的な自然林や池(永谷池)を保全した「自然保全区城」と、多くの人々
が語らい、憩い、ふれあう場としての芝生広場、里山を表す谷間と伝統的日本庭園(水
景園)の交流施設区域から成っています。
2 水景園については
●特に伝統的な庭園技法を駆使し、斬新な様式美を備えた平安建都1200年の記念
となる新しい池泉回遊式日本庭園です。
●池泉回遊式の水景園は、鯉の泳ぐ緩やかな水景棚に囲まれ、会議室やギャラリー
を備えた複合施設「観月楼」とそれにつながる「観月橋」があります。秋の紅葉は特に
美しく、岩礁を背景に見事に赤く染まる葉色が見どころです。
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蓮台寺へ向かう
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蓮台寺・・・西山浄土宗のお寺です。
文禄2年(1593)、寺号を青蓮奄から蓮台寺に変えたといわれています。その後、寛文
10年(1670)、本空弓覚が復興しました。近くにあった願成寺の仏像などが移されまし
た。南稲八妻地区にある蓮台寺。明治時代の記録には、かつて近くに願成寺(がんじょ
うじ)という寺があり、その寺が閉じられた際に仏像や仏画がうつされたとあります。
れんだいじ/やくしにょらいりゅうぞう・・・愛らしい、かわいい仏様
有形文化財である薬師如来立像も、もとは願成寺にあったようです。この像の高さは、
わずか52センチ。ふっくらとした身体つきで、微笑んでいるような表情をうかべた、なん
とも愛らしい仏像です。左の手のひらに小さな薬壺を載せています。制作時期は平安
時代前期の9世紀後半と推定され、町内でもっとも古い仏像のひとつです。
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11月27日の馬見丘陵公園と26日の総合防災訓練

11月28日        11月27日の馬見丘陵公園と26日の総合防災訓練
                   馬見丘陵公園の皇帝ダリア&紅葉
皇帝ダリアを見に行く時間が無く、今日になってしまいました。少し時期遅れの感が・・・
紅葉はまだまだ此れからも見頃だと思われた。
口腔外科の帰りに馬見丘陵公園に寄り道して撮って来た。
皇帝ダリア
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紅葉
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集いの丘
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皇帝ダリア
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集いの丘
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紅葉
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紅葉・・・ポイプロ投稿写真
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11月26日・・・ポイプロ投稿写真
        我が町の総合防災訓練に参加して・・・
煙体験
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AED体験
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11月24日の京都・東山もみじウオークー1

11月27日     11月24日の京都・東山もみじウオークー1
             JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と2人で参加、最高のハイキング日和となり、素晴らしい紅葉散策
だった・・・
参加者232人、此の日の私の万歩計は、26299歩で約17.5km歩いた事に・・・
コース JRふれあいハイキング 京都府ウオーキング協会主催 参加費300円
集合場所が京都駅中央口駅前広場(東側)から当日、途中の五条公園へ変更。
京都駅~五条公園(受付・スタート)~五條大橋~鴨川河川敷~お池橋~岡崎公園
(昼食)・平安神宮~動物園横~南禅寺前~永観堂前~哲学の道~法然院~銀閣
寺前~後二条天皇陵前~京大前~今出川通り~出町柳駅前~加茂大橋~同志社
大~今出川駅(解散)~地下鉄10分 → 京都駅 近鉄で帰途に・・
五条児童公園をスタートして
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五条大橋を渡って鴨川河川敷遊歩道を歩く
五条大橋
「五条通」の鴨川に架けられた「五条大橋」は、平安時代末に牛若丸(源義経)と弁慶
が出会ったという伝説で知られる橋。
現在の五条大橋のたもとに「牛若丸と弁慶の石像」
五条大橋の西詰には、京人形風に作られた「牛若丸と弁慶の石像」が建てられている。
ただ・・・、現在の「五条通」は当時の「六条坊門小路」に当たり、平安時代の五条通(五
条大路)は、清水寺から清水坂を下り鴨川を渡って松原通へとつながる道だったという。
したがって、牛若丸と弁慶が出会ったのは現在の「松原橋」ということになる。

鴨川河川敷遊歩道
鴨川の河川敷が現在のように美しく整備されるようになったきっかけは、昭和10年の集
中豪雨で鴨川が氾濫したこと。このため河川の大改修工事によって高水敷が整えられ、
緑地化して運動広場や芝生地がつくられたのです。堤防上には当時のサクラやマツ、カ
エデ、ムク、エノキなどの老並木が残り、水辺に遊ぶ人々の姿を見守っています。
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三条大橋?
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御池橋で上へ上がって岡崎公園へ
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大鳥居が見えて来た
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チンチン電車展示品、奥に平安神宮の山門が・・・
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岡崎公園(昼食)
1895年(明治28年)の内国勧業博覧会跡地に、市の公園として開設された。美術
館、図書館、ロームシアター京都、動物園などがある文化ゾーンとなっている。又、
運動場でテニス、野球を楽しむ市民も多い。
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昼食後に平安神宮を少し
平安神宮で銘菓展に遭遇ししばし鑑賞
平安神宮
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧
業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は
実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買
収に失敗。1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われ、当時は郊外であった
岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。
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工芸菓子の展示も・・・
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そろそろ集合してスタートの時間・・・
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岡崎公園をスタート、
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京都市動物園横を通り、南禅寺前へ
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此の続きは、
11月24日の京都・東山もみじウオークー2 として
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此の続きは、南禅寺前~
南禅寺前
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南禅寺
今からおよそ2500年の昔、「苦悩の全てを離れた境地」に達したいという、大いなる
願いのもとに出家した、北インド釈迦族の悉達多(シッダルタ)太子は6年間の苦行
ののち、菩提樹下に坐禅すること8日目の早暁、天空に輝く明の明星を仰いだ刹那、
星と一つになって光り輝く我が心を感得し、ついに悟りを開かれました。
「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す」(不思議だ、ふしぎだ、
この世に存在する全てのもの、仏でないものは何もない)という大歓喜の叫びをあげ
られ、ここに「有情非情同時成道、草木国土悉皆成仏」の大安心(だいあんじん)が確
立されたのでした。時に太子35歳の12月8日のことでした。この日を成道の日とし、
以後太子は仏陀(ぶっだ---覚れる者)・如来・釈迦牟尼(釈迦族出身の聖者)・釈尊など
と呼ばれることになります。このように釈尊(仏陀)の坐禅による悟り=正覚・仏心を根
本として説かれた教えが仏教です。
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南禅寺前を通り
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永観堂前を通り
永観堂
本尊(国・重文)みかえり阿弥陀像
永観堂の正式名称  聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺(しょうじゅらいごうさん むりょう
じゅいん ぜんりんじ) 第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称される。
貞観五年(863)清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う。宗派は、浄土宗西山(せいざん)
禅林寺派。宗祖は法然上人(源空)。
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哲学の道へ
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哲学の道を通り
哲学の道
南は永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水
に沿った散歩道です。京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工
の水路です。 哲学の道は、疎水の西側に散歩用の石畳が敷かれ、日本の道百選
にも選ばれている散歩には最適の道です。
南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散歩す
る人を和ませてくれます。京都の哲学者、西田幾多郎がこの道を思索にふけりなが
ら散歩していたことから「思索の小径」と言われていました。その後、西田幾多郎の
愛弟子田辺元や三木清らも好んでこの道を散策したことからいつしか「哲学の道」と
も言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と銘々されました。
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法然院へ
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法然院(ほうねんいん)
京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本
山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式
名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。
別称には「本山獅子谷法然院」がある。
寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来
するという。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されて
いる。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境
内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
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銀閣寺前へ
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銀閣寺前を通り
銀閣寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江
戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没
後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
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後二条天皇陵前を通り
後二条天皇(ごにじょうてんのう)
鎌倉時代の第94代天皇(在位:1301年3月2日 - 1308年9月10日)。諱は邦治
(くにはる)。大覚寺統の天皇である。
後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華
門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。
後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから
実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統に
よる両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多
となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存
在することになった。
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京大前を通り
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今出川通り
出町柳駅前~加茂大橋を渡り
左が鴨川、右が高野川
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同志社大前、京都御所前を通り
今出川駅(解散)~地下鉄10分 → 京都駅~近鉄で帰途に・・

京都駅~近鉄電車で帰途についた・・・

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11月21日のぽっくり寺参拝と三室山&竜田川公園の紅葉-1

11月26日       11月21日のぽっくり寺参拝と三室山&竜田川公園の紅葉 
                   歩こう会特別企画(紅葉) 歩程約7㎞
此の日の参加者は40人、私の万歩計は、17600歩で約13km歩いた事に・・・
王寺駅前(受付・スタート)~神岳神社(かみおかじんじゃ)~三室山(みむろやま)~
吉田寺(きちでんじ)参拝~龍田神社~竜田公園~竜田城跡~王寺駅(解散)
次週、11月28日が歩こう会の例会で、けいはんな公園紅葉散策を予定しており、竜田
公園の紅葉散策は、近場での紅葉散策の保険のようなものだったが、吉田寺での念仏
講体験と三室山と竜田公園周辺の素晴らしい紅葉散策に皆さん満足した様子の一日
でした・・・
志都美駅
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王寺駅西友前&新王寺駅前
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神岳神社(かみおかじんじゃ)
神岳神社
神岳神社は、三室山の中腹に鎮座する神社で境内の縁起には聖徳太子が斑鳩
宮造営の際に飛鳥の産土神をこの地に安置し、太子之勅願所として祭祀されて
いたといわれます。本尊の地蔵菩薩像と聖観音菩薩像は融念寺(恵宝殿)に安
置されています。
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三室山(みむろやま)
三室山は、標高82mの小さな山で、古来より神の鎮座する山とされており、神南備
山とも呼ばれます。平安時代の歌人・能因法師が
     「嵐ふく 三室の山の もみち‘葉は 竜田の川の 錦なりけり」(歌碑)と
詠んでいることでも知られ、春には300本のソメイヨシノが山の半分を覆い桜の名所
ともなっています。
此処には、能因法師の歌と在原業平の竜田川の歌が・・・
     「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」歌も・・・
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吉田寺へ向かう
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吉田寺(きちでんじ)
吉田寺
吉田寺は、清水山を号とする浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来像(奈良県下
で最大)で多宝搭とともに国の重要文化財に指定されています。天智天皇の勅願
により恵心僧都(源信)が開基し、恵心僧都が母親の臨終の際、祈願した衣服を着
せかけたところ安らかに往生したと伝えられており、御本尊に祈ると腰から下の世
話をかけずに往生できるといわれることから「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
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龍田神社
当社の神使は鶏。手水鉢に鶏の像が置かれている。
聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、
守護神として本宮の分霊を勧請。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。
ただし、法隆寺創建以前から祀られていたとする説もある。
明治以前は法隆寺から当社へ別当をおき、例祭には30人の僧侶を遣わして法会が
行われていたが、明治になって神仏分離により、法隆寺から離れ、龍田大社の摂社と
なったが、大正十年県社に列し、翌年、龍田大社から分離独立した、
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金剛流発祥之地碑
能楽の金剛流は,大和猿楽4座(結崎・円満井・外山・坂戸)の一つ「坂戸座猿楽」が
ルーツで、ここ斑鳩の里を発祥の地とする。 大和4座は、大和一円の大寺に所属した
猿楽座で、外山座と結崎座は 現在の談山神社に、円満井座は興福寺に、坂戸座が
法隆寺に属したといわれ、後にそれぞれ 観世座・宝生座・金春座・金剛座と呼ばれる
ようになった。
坂戸座は 坂戸孫太郎氏勝を流祖とし、6世の三郎正明から「金剛」を名乗った。華麗・
優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」などとも
呼ばれる。豪快な芸風で知られた 7世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖
とされる。
江戸初期に金剛流から喜多流が分派し“四座一流”と呼ばれるようになった。
この発祥碑は、斑鳩町制施行50周年を記念して、1997(平成9)年に建立された。
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竜田公園(昼食)
竜田川は、在原業平が
  「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」(歌碑)と
詠むなど古くより紅葉の名所で、今は遊歩道が整備された都市公園です。
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足元には色とりどりの落ち葉
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龍田城跡へ向かう
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龍田城跡
室町時代に龍田氏の館があったとも云われる。 慶長6年(1601年)大和国に2万
4千石を領して入部した片桐且元によって陣屋が築かれた。 且元は間もなく摂
津国茨木に移り、且元が没すると孝利が継いだ。 孝利没後は且元の四男為元
が継いだが1万石に減封され、元禄7年(1694年)断絶となった。

龍田城跡~王寺駅(解散)
先頭で旗を持って先導してたので休憩してた時のみ写真撮影だった為、写真が少ない・・・
歩こう会終了後は、王寺の餃子の王将で小宴&反省会?皆さんと別れてバスで帰った。

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11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-1

11月23日     11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-1
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
此の日は最高のハイキング日和、知人のO村さん、I田さん、M村さんと4人で参加した。
近鉄駅フリーハイキング 安藤駅受付9時半~11時 集合9時50分 ワイン1杯500円
安堂駅(受付)~大和川河川敷~天湯川田(あまゆかわた)神社~史跡高井田横穴公
園・歴史資料館~観音寺~鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社~オガタ通り商店
街~カタシモワイナリーぶどう園~石(いわ)神社~安堂駅(解散)
此の日の私の万歩計は、22984歩で約17km歩いたことに・・・
志都美駅
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安堂駅()受付・スタート)~天湯川田(あまゆかわた)神社
天湯川田(あまゆかわた)神社~史跡高井田横穴公園・歴史資料館
天湯川田(あまゆかわた)神社
景行18年、勅命にてこの地に宮柱を建て神地、神戸を定めた。天平勝宝8年(756)、
孝謙天皇が河内国知識寺を参拝、弘仁式の当時から官社であつた。明治5年(187
2)村社 社名も天湯川田神社と旧に復す。
天平勝宝8年(756)、孝謙天皇が河内国知識寺(柏原市太平寺にあり)の南行宮に来
られた時、天皇は知識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六カ寺を巡拝された。このなか
の鳥坂寺は天湯川田神社のある丘陵の上に遺構がみつかつている。現在の社殿はそ
の塔跡の部分に立つている。鳥坂寺は鳥取氏の氏寺あり、当時は氏寺である鳥坂寺と
近接して、氏神の天湯川田神社もあつて、ともに鳥取氏からあつく崇拝されていたことと
思われる。
中世6月7日の祭礼に神幸するところを比叡の森といつたという。ここには山王権現社
があってあつたが、ここが大宮川田明神の旧殿のあつたところと伝へてゐる。比叡の森
が現在どこにあるかは不明である。「現在の末社山王神社は比叡の森にあり、川田明
神の旧社地と伝えている」と記載されているが、現在山王神社は本殿すぐ右手に鎮座
しており不詳。当社は、和泉国鳥取郷から移ってきた鳥取氏が、鍛冶・製鉄作業の守
護神としての天湯河棚命を祀ったものと思われる。
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史跡高井田横穴公園へ向かう
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史跡高井田横穴公園
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史跡高井田横穴公園・歴史資料館~観音寺
歴史資料館
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観音寺へ向かう、大阪市街地が見える
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観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝
謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時
としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機
となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建される
ことはなかった。観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は
不明であるが奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺
品ともいえるだけに貴重な物といえる。
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観音寺横の展望台?
展望台の上と下
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観音寺~鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社
鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社へ向かう
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鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社
鐸比古鐸比賣神社は、大阪府柏原市大県にある神社。延喜式神名帳に記されている
式内社で、旧社格は郷社。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、
鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られてい
たが、中世には現在の地に遷されたといわれている。
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此の続きは、
11月19日のおもろいやんカタシモワイン祭り2017-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、鐸比古鐸比賣神社
の境内で紅葉を見ながら昼食~
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鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社~オガタ通り商店街
オガタ通り商店街~柏原駅前
柏原駅前
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柏原駅前~カタシモワイナリーぶどう園
カタシモワイナリー
明治初期、創業者の父、高井利三郎によってブドウ栽培に適した大阪平野の堅下(カ
タシモ)を開墾。大正元年、創業者高井作次郎がやっとのことでワイン醸造に成功。
その後、質の高いワイン造りに生涯をかけました。今もその伝統を引き継ぎながら日々
研鑽を重ねております。自社農園では除草剤を使用せず減農薬に取り組み、可能な限
り有機肥料を使用した栽培を行っております。平成13年より、ジャパニーズグラッパの
製造に着手。平成15年には、ベルギーにてモンドセレクション銅賞を受賞。平成16年度
には「優良ふるさと食品中央コンクール」において農林水産大臣賞をいただき、平成25
年には「がんばる中小企業・小規模事業者300社」(経済産業省)に選ばれました。

カタシモワイナリーぶどう園
事務所でグラスを入手しないでぶどう園へ行った為、ワインを飲む事が出来なかった?
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カタシモワイナリーぶどう園~石(いわ)神社
石(いわ)神社
延喜式神名帳に記されている式内社で、通称・熊野観音ともいわれ、三代実録に「清和
天皇貞観9年、河内国大県郡石神預官社、此の地の生土神」とあります。旧社格は郷社
です。境内案内によると、かつて、この辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があり、聖
武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を往来する際にこの地を訪れ、智識寺を含めた、
山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、鳥坂寺の六寺に礼拝礼仏され、智識寺にあった大き
い廬舎那仏に感動された聖武天皇は、東大寺大仏造営を発願されたといわれています。
その後寺は室町時代ごろに廃れたといいます。社名の由来となったと思われる御祭神の
石姫命は、宣化天皇の皇女で、欽明天皇の皇后となられた方です。また、石長姫命は、
大山祗神の娘神で「岩のように長久に変わることのない女性」という意味だそうです。
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石垣の組まれた入口には目を見張るような大きく勢いのいいご神木の大楠が聳え、鳥居
を潜ると左手に社務所があり、参道の石段を登ったところに社殿が造営されています。
社務所脇柵内には、聖武天皇の東大寺大仏造営のきっかけとなったと伝わる、智識寺の
東塔(大阪府文化財指定)の礎石があります。
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石(いわ)神社~安堂駅(解散)
安堂駅 → 五位堂駅へ帰り、バスで自宅へ
五位堂駅
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11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-1

11月23日     11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-1
                昼飲み会ハイキング大阪城~天王寺へ
11月17日の昼飲み会参加者は5人、ハイキング参加者は3人、K場さん、M吉さんと3人で
約10kmの紅葉散策、紅葉散策の後は湯処・あべの橋で汗を流して昼飲み会へ合流・・・
此の日の私の万歩計は、26285歩で約19.4km歩いたことに・・・
ハイキングコース  大阪城~天満橋~八軒屋浜~高津宮~天王寺  歩程約10㎞
森ノ宮駅~大阪城公園(NHK前~京橋口)~大坂橋~川崎橋~天満橋~八軒屋浜~中之
島公園(昼食)~八軒屋浜~榎大明神~高津宮~天王寺公園(13:30頃)⇒湯処・あべの橋
14:50にJR天王寺駅で待合せて、居酒屋「甘太郎」で昼飲み会で盛り上がった・・・
志都美駅~森ノ宮駅
森ノ宮駅~
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大阪城公園(NHK前~京橋口)
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大坂橋~
大坂橋(おおさかばし)は、大阪市の寝屋川と府道石切大阪線を跨ぎ、大阪城公園と
毛馬桜之宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋。大阪市中央区大阪城と都島区片町
1丁目の間を結んでいる。橋の南側には日本経済新聞大阪本社と旧大阪砲兵工廠
化学分析場跡がある。
橋の名前の由来は、1925年、東横堀川の浚渫中に「大坂橋 天正13年」(1585年)の
銘が刻された擬宝珠(ぎぼし)が発見されたことにちなんでいる。この「大坂橋」が当
時どこに架かっていたのかは不明である。
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川崎橋
川崎橋(かわさきばし)は、大阪市北区天満と都島区網島町を結ぶ大川に架かる自転
車・歩行者専用斜張橋。 国土交通省が全国的に整備を進めている大規模自転車道の
ひとつ、北大阪サイクルライン(大阪市北区中之島~大阪府吹田市万博記念公園)の
大川を渡る地点に架かる。浪速の名橋50選選定橋。昭和53年度の土木学会田中賞を
受賞。橋名は、かつて架橋地点にあった渡船「川崎渡」から採られている。
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天満橋・大川沿いをライオン橋迄
天満橋(てんまばし)は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)の橋。
難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位置する。大阪市北区天
満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいる。
大阪では珍しい2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっている。
天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋という。大阪市
営地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過している。
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難波橋(なにわばし)・・・ライオン橋とも呼ばれる
難波橋は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。
大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋である。
中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を
分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれ
ている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華
橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが
108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕
府が管理する公儀橋とされた。
黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(ライオンの石像、天 岡均一作)が左右両側に有る為、
「ライオン橋」とも呼ばれている。
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中之島公園・バラ園
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天神橋の下、中之島公園で(昼食)
天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、
大阪市北区天神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永
11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に
浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上
からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちた
らこわいな」と童歌に歌われた。
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中之島公園の先端の噴水
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噴水が噴出した
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八軒屋浜
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたな
べのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国
の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山
への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたことや、遷都
等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港地としての機能は
近世以降も残ることになる。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるように
なり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川
舟運の要衝として栄えた。
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此の続きは、
11月17日の大坂城&大川&熊野街道を紅葉散策-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、熊野街道~
熊野街道~榎大明神
熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ
と通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良
県、和歌山県、大阪府に跨る。
熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。
紀伊路(渡辺津 - 田辺)
小辺路(高野山 - 熊野三山、約70km)
中辺路(田辺 - 熊野三山)
大辺路(田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮 - 熊野三山、約160km)
これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地
の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的
景観」)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。
熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残ってい
ることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だか
らである。
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶
民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、908年(延喜7年)の
宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、1281年(弘
安4年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた。
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御
幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより京
都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を
行っている。源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した。
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太閤(背割)下水見学施設
豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。
豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。町づくりにあたっ
ては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であったので、道路整備と同時
に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。
東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、その
道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水溝は「背割
下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の大阪は、この太閤
(背割)下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が町割りの基本となっていました。
現在でも実際に使用されている太閤(背割)下水を地上に設置したのぞき窓から自由にご覧い
ただけます。
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榎大明神
•第二次世界大戦の大阪大空襲の際、この榎木大明神のところにも猛火が迫ってきた。しかし
不思議なことに火は榎木大明神の前でぴたりと止まり、そこより東側一帯は焼失を免れた。
•御神木が立っている。樹齢約650年。楠木正成(くすのきまさしげ)が植えたともいわれる。
•白蛇を祀っている。
1988年頃、枯れそうになったそうですが、ある樹医さんの延命施術のおかげで助かったそうで、
今もなんとか元気でやっておるようです。ちなみに、この木、実はエノキじゃないんだそうです。
榎木大明神という名前なので、てっきりエノキかと思っていましたが、実際はエンジュだそうです。
樹医さんに診てもらった際に、エンジュだと鑑定されたそうだが、昔からの馴染みで今もエノキさ
んと呼び続けているらしいです。
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熊野街道~高津宮
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高津宮
高津宮(こうづぐう)の縁起は、平安初期の(貞観8年)清和天皇の勅命により、仁徳天皇の旧
都の遺跡を探索し、現在の大阪城付近を社地と定め社殿を築き、仁徳天皇を主神として祭っ
たのを創始としている。
以後皇室を始め時の幕府等の度々の造営寄進を受け、浪速津の守護神として信仰を集めて
きた。1583年(天正11年)豊臣秀吉の大阪城築城に際し、「比売古曽社」があった現在地に
遷座し今日に至っている。
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真言坂~生国魂神社
真言坂
真言坂(しんごんざか)・・・天王寺七坂の一つ
生國魂神社の北側にある南北の坂。かつては真言宗の寺院が六坊あった。
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※天王寺七坂(てんのうじななさか)は、大阪市天王寺区の上町台地西側(夕陽丘地区)に
ある7つの坂の総称。
北から順に、真言坂(しんごんざか)生國魂神社の北側にある南北の坂。かつては真言宗の
寺院が六坊あった。源聖寺坂(げんしょうじざか)坂の下に浄土宗・源聖寺がある。口縄坂(く
ちなわざか)愛染坂(あいぜんざか)坂の上に勝鬘院(愛染堂)がある。清水坂(きよみずざか)
清水寺の北側にある。天神坂(てんじんざか)安井神社(天神(菅原道真)が祀られている)へ
通じる坂。逢坂(おうさか)一心寺の北側の国道25号線の坂。

生国魂神社
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在
の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石
山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神
霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである
難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体
もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久
太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても
崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代
表的な古社の1つである。
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愛染坂(あいぜんざか)
坂の上に勝鬘院(愛染堂)がある。坂の横に大江神社が有る。
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大江神社
大江神社(おおえじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。四天王寺の鎮守である四
天王寺七宮のひとつ。祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命。
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境内奥にパワースポット?
当神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作と考えられ
ている。その昔、狛虎の奥に毘沙門天を祀る堂があり、虎は毘沙門天を護るとされている。狛
虎は元々は阿吽で1対をなしていたが、吽形の方が明治初期に某寺に持ち出されてしまったと
言われている。現在の吽形は2003年に再建されたものである。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが供えられ
ていることがある。また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札がある。
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愛染堂
愛染堂(勝鬘院)  あいぜんどう (しょうまんいん)
日本最初の社会福祉施設、施薬院として建立
西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王
寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与
えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大
であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。
施薬院から勝鬘院へ
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお経を人々
に講ぜられていたため、そして勝鬘経に登場するお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の
仏像が本堂に祀られているため、後にこう呼ばれるようになりました。主な堂塔として、金堂
(府の指定文化財)と多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。
勝鬘院から愛染堂
正式名称は勝鬘院ですが、金堂に愛染明王が奉安されており、また愛染明王信仰の普及と
ともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されています。
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谷町筋・・・前方にあべのハルカス
あべのハルカス
2017年現在、日本で最も高いビルであり、日本初のスーパートール(高層ビル・都市
居住協議会の基準による300m以上の超高層建築物)でもある。
建築規模は高さ300m、延床面積21万2,000m2、地上60階・地下5階(SRC・S造)で
ある。2011年2月から地上工事が始まり、2014年3月に竣工、同年3月7日にグランド
オープンした。工事中の2012年8月時点で高さ300mに到達し横浜ランドマークタワー
(高さ296m)の高さを抜き、「日本一高いビル」の称号が大阪に移った。
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天王寺公園(13:30頃)~⇒湯処・あべの橋
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋「甘太郎」
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11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1

11月21日      11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1
                 11月度 歴史探訪の会
天気良く、ハイキング日和にも係らず参加者は13人、やはり遠距離がひびくのかな?
此の日訪れた須磨は、西国と畿内を結ぶ要地にあり、奈良時代には須磨の関が置か
れ、平安時代には「源氏物語」に見られる様に貴族の隠棲の場所にもなりました。平安
時代末期には源義経による”逆落とし”で有名源平合戦(一ノ谷の合戦)の舞台にもなり
ました。江戸時代には西国街道を多くの人が往来し、松尾芭蕉や与謝野蕪村などが須
磨を訪れた記録が残っています。又、須磨の地名の由来は、六甲山系の鉄拐山や鉢
伏山が海の近くまで迫り平地の「スミ」にあたる事、山の西で垂水区との境を流れる境
川が古くは摂津と播磨の国境であった事より、隅っこの「スミ」が訛って「スマ」になり、
色々な漢字が当てられた様だが、現在の「須磨」になった、との説があります。
今回のコース
JR須磨駅改札口(10時集合)~村上帝社~関守稲荷神社~現光寺~平重衡捕われ
の松~須磨寺~須磨寺公園(昼食)~松風村雨堂~綱敷天満宮~JR須磨駅(解散)
此の日の私の万歩計は、13531歩で約10km歩いたことに・・・
志都美駅
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JR須磨駅舎から海を
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JR須磨駅&須磨海岸
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村上帝社&琵琶塚
平安時代の末期、琵琶の名手であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたい
と思い、都を発った。須磨迄来た夜に村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝
えたので、唐に行く事を思いとどまり、琵琶の名器「獅子丸」を此処に埋めて都に帰って
行った。此の伝承に基づいて土地の人が村上天皇を祀ったとされる。
能の「絃上」は此の伝承を題材にしたもの。師長が琵琶を琵琶を埋めたという塚は一分
が残っている。
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関守稲荷神社
関守稲荷人社は此の辺りにあった「須磨の関」の守護神として祀られたと伝えられて云
います。「須磨の関」は大宝令に定められている摂津の関の事で、天下の三関(伊勢・鈴
鹿の関、美濃・不和の関、越前・愛発(あらち)の関)に次ぐ重要な関でした。境内には源
兼昌の歌碑があります。 百人一首   源兼昌(78番)
        淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に  いく夜寝覚め ぬ 須磨の関守   ...
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現光寺(源氏寺)
正式な名称は藩架山現光寺 正式な名称は藩架山現光寺。「源氏物語」の須磨の巻の舞
台と伝えられている事より光源氏の住居跡といわれ、元は源氏寺とも呼ばれていた。江戸
時代には松尾芭蕉が此の寺に泊まったとも言われ、境内には三段切の名句「見渡せば眺
むれば見れば須磨の秋」の句碑が立っている。
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平重衡捕らわれの松跡
1184年の一ノ谷の合戦で源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の軍と戦った平重衡(平清盛の五
男)は戦いに敗れ、退却しようとしたが範頼の郎党に生け捕りにされた。捕えられた重衡は
近くに有った松に腰を掛けて無念の泗を流した。これを見た村人が哀れに思い酒を差し出し
たところ、重衡は大変喜び 「笹ほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまでのむこそ濁り酒な
れ」と詠んだと伝わる。平重衡はその後鎌倉に送られたが、重衡に焼き討ちされた南都の
強い要求により南都に引き渡され、木津川の畔で処刑された。
駅舎の角にある
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須磨寺へ向かう
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須磨寺
真言宗須磨寺派の本山で、正式名称は上野山(じょうやさん)福祥寺ですが一般的に須磨寺
と呼ばれています。平安時代に漁師が和田岬の沖で見つけた聖観音像を聞鏡(もんきょう)上
人が此の地に移したのが始まりとされています。一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛
愛用の「青葉の笛」、平敦盛の首塚(首塚は須磨浦公園にあります)、弁慶の鎧、義経腰掛け
の松等、源平ゆかりの重宝や史跡があります。又、境内には松尾芭蕉、正岡子規等文人の句
碑や歌碑等が有ります。
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※平敦盛
平清盛の弟、経盛の末子で笛の名手と伝わる。愛用の「青葉の笛」は敦盛の祖父平忠盛が鳥
羽上皇から賜ったものと言われる。一ノ谷の合戦で源氏方の熊谷直実に討たれるが、直実は
敦盛が我が子と歳の変わらぬ若武者であった事から一度は見逃そうとするが、泣く泣く敦盛を
討った。直実は此れをきっかけに出家したと言われる。
此の続きは、
11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-2 として
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続きは、須磨寺途中~
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源平の庭
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敦盛首塚
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須磨寺公園(昼食)
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松風村雨堂
平安時代の公家で、歌人でもある在原行平が光考天皇不興をかい須磨に左遷された際に多
井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」と「村雨」と名付けて愛しました。
行平が都に戻った後も二人は行平を慕い続けて庵を結び行平の無事を祈ったと言われ、現
在のお堂がこの庵の跡と伝えられています。
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綱敷天満宮へ向かう
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綱敷天満宮
菅原道真が大宰府に左遷される途中、風雨を避ける為に須磨に一時上陸した際に、土地の
漁師たちが漁網の大網で円座を作り休息して頂いたとの言い伝えがあります。
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北海道の名付け親
「北海道」名付けの親である松浦武四郎さんが納めた宝鏡があります。 二十五霊社と
は「北海道」を命名した松浦武四郎の定めた天神社25社を指します。
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JR須磨駅(解散)
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