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2月19日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」・大和高田駅-1

2月21日    2月19日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」・大和高田駅-1
                 近鉄 駅フリーハイキング 歩程約11㎞
知人と3人で参加の予定だったが、1人風邪でダウンし2人での参加となった、少し
北風が吹いてたが気にならない暖かい良い天気に恵まれて楽しいハイキングだった。
コース 近鉄 駅フリーハイキング 大和高田駅10時~11時  
大和高田駅~池尻天満宮~十二社神社~高龍神社~広陵公園~新三木山古墳~
三吉石塚古墳~竹取公園(昼食)~馬見丘陵公園~長龍酒造・甘酒・試飲・抽選会~
馬見丘陵公園~2人で(1.3km)池部駅 近鉄田原本線 池部駅 →新王寺へ戻った。
此の日の参加者は、1311人。私の万歩計は、23378歩で約15.9km歩いたことに・・・
志都美駅へ向かう
西名阪自動車道の高架
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志都美駅
葛城山~二上山&二上山アップ?
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JR高田駅から歩いて受付場所へ
大和高田駅前には既に長蛇の列が・・・
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池尻天満宮
池尻環濠集落の東南にあり、創建由緒などは不詳ですが、元禄12年に焼失、享保
(きょうほう)5年に再建されています。境内北側に地蔵堂があり、南側には慶応2年の
刻銘がある役行者の石造が有ります。
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※池尻環濠集落
縄文から弥生時代は、高田川・葛城川の周辺地域は、水田の耕作に適した地域で
あったと考えられる。中世には、多くの環濠集落が形成されました。とくに、大和平野
の中心部には濠(堀)に囲まれた集落が多い。水利と村落防衛のために造られたと
考えられる。大和高田市内にも多くの環濠集落が残っているが、水利の変遷や住宅
開発などにより姿を消しつつある。池尻環濠集落や藤森環濠集落が残っている。
中世、大和高田市一帯は「葛下郡」とよばれ、二千町歩を超える奈良興福寺一乗院
平田荘の荘内にありました。室町時代には、当麻高田氏によって「高田城」が築城さ
れます(伝・1432年)。1580年、織田信長の破城令によって取り壊されるまで、約150
年のあいだ大和武士としての勢力をふるいました。当時の高田城は絵図から約二町
四方の広さで、正面を西に開き、東を搦め手として堀の中に二重の城壁で囲まれた
平城であったとされます。

十二社神社へ向かう、二上山
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藤森環濠・十二社神社
十二社神社
藤森環濠集落南西部の古木の茂みに囲まれた所にあり、創祀(そうし)年代は不明です。
かつて藤森集落は多武峰社領で当村産の米を談山神社に収納していたそうです。本殿
も談山神社から移されたと伝えられます。
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高龍神社(くらおおかみじんじゃ)
藤森集落の東側にあり、十二社神社に対して東の宮とも言うそうです。古来道路南側の
吉村家の醸造用水守護の神として祀られて来ましたが、後年藤森の宮として移管され、
十二社神社の末社とされたようです。竜王神社とも呼ばれていたようです。
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高田川沿いの自転車・歩行者専用道路を広陵公園へ向かう、二上山
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※二上山(にじょうざん)
奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉による読みで
「ふたかみやま」と呼ばれた。
金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある
双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。二上山の北側
の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称さ
れている。後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石
器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。大阪みどりの百選
に選定されている。

広陵公園(トイレ休憩)、広陵町へ入りました
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新三木山古墳の横を通り、三吉石塚古墳へ到着です・・・
三吉石塚古墳(みつよしいしずかこふん)・・・県指定史跡
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径41.4m、
高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部が付いています。周囲に馬蹄形
(ばていかた)の周濠が掘られ、さらに外堤があり、堤を含めた全長は62mとなります。
墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬがさ)、短甲(たんこう)、家形
埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石が施され、葺石の作業単位が良く残る。
前方部の南東隅には張出部が設けられ、周濠幅が狭くなっている。埋葬施設は未調査
で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられています。
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新三木山古墳の環濠、一部分残っている
※新木山(にきやま)古墳 (陵墓参考地)
馬見古墳群で中核をなす墳丘200mの前方後円墳である。古墳の築造時期は円筒埴輪
から古墳時代中期後葉と考えられる。埋葬施設の副葬品と考えられる勾玉(まがたま)、
管玉(くだだま)、棗玉(なつめだま)が宮内庁に保管されている。
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竹取公園(昼食)を終えて馬見丘陵公園へ、折角なので梅林へ
馬見丘陵公園
大和平野の粗中央にある馬見丘陵は、我が国でも有数の古墳が集中している地域です。
これ等の古代の遺跡を包み込む様に、豊かな自然が広がっています。馬見丘陵公園は、
こうした歴史と文化の遺産や素晴らしい自然環境を、憩いの空間として広く活用して頂く
事を目的に整備された都市公園です。園内は、緑道エリア・北エリア・中央エリア・南エリ
アと大きく4つに分かれており、北エリアと中央エリアは離れていますが連絡道があるの
で、行き来する事が出来ます。馬見古墳群内に位置する公園の為、園内には多数の古
墳が存在します。

馬見丘陵公園・梅林
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此の続きは、
2月19日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」・大和高田駅-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、梅林の途中~
梅林
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梅林から・倉塚古墳・下池・菖蒲園とカタビ古墳群から・バラ園を通り
倉塚古墳(スベリ山古墳)
墳丘:前方後円墳、全長180m、後円部径106m、高さ12m, 前方部幅70m。前方部
を東に向ける。墳丘の東北部に周濠状の地形あり。埋葬施設:不明。出土遺物:不明。
築造年代:不明。発掘調査:未。被葬者:不明
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下池
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菖蒲園の向こうは古墳の丘(カタビ古墳群)
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※カタビ古墳群
馬見丘陵公園造成に先立つ発掘調査で4基の古墳が確認されました。1号墳(方墳)
と3号墳(円墳)は大型古墳が盛んに築造された5世紀代に造られたもので、2号墳
(円墳)と4号墳はほとんど古墳が築かれなくなった7世紀代の古墳です。

トンネルを潜って北エリア、・集いの丘~・馬見花苑を
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池上古墳側へ陸橋を渡り国道寺戸交差点へ
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※池上古墳
帆立貝式古墳・墳長92 m・5世紀前半・国史跡。溜池のほとりを西に入ると
馬見丘陵公園の出入口があります。中に入ると古墳説明看板があり、古墳
のぐるりを一周できます。墳丘は外堤に囲まれ、後円部は二段築成で、中段
テラスや墳丘裾などに円筒埴輪列が巡っていました。

高田川を渡って高田川沿いを
長龍酒造へ向かう
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長龍酒造
・甘酒・試飲・抽選会
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2人で馬見丘陵公園へ
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馬見丘陵公園へ戻り、集いの丘から
馬見丘陵公園を端から端迄(直線距離で約3km)歩いた事に・・・
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馬見丘陵公園内を1.3km歩いて川合町からの入口へ
川合町役場の庭が綺麗?
河合町役場の敷地は、もともと「豆山荘」(まめやまそう)と呼ばれる邸宅地であり、
日本庭園(池泉回遊式庭園)がある。役場の正門は大正時代に建築された木製
瓦葺の屋敷門で、「河合町役場」と墨書された木の看板がかけられており、門の
両脇には阿吽一対のライオンのレリーフを施した石が配置されている。門から庁
舎まではゆるやかな上り坂となっており、庭園を通って庁舎に入ることになる。
「町役場の門とは思えない」光景はメディアにしばしば取り上げられ、また町の側
もその珍しさを自任している。『河合町史』には「全国でも珍しい存在」との記載が
あり、町が選定した人気のある名所「河合八景」の一つにも「役場の古い門」が選
ばれている。
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※豆山荘
田原本線の前身となった鉄道を敷設した大和鉄道の創業者・森本千吉によって、
大正時代(阿吽のライオンには大正12年(1923年)の文字が刻まれている)に作ら
れた邸宅である。
池部駅へ
池部駅 →新王寺駅~JR王寺駅へ
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2月16日の司馬遼太郎が暮らした東大阪の街歩き-1

2月20日      2月16日の司馬遼太郎が暮らした東大阪の街歩き-1
   近鉄駅フリーハイキング
今回は知人と3人で参加、ハイキングの後で通天閣下の風呂に入って15時~17時
で昼飲み会を設定して有るのでハイキングを急ぎ足ですませてラジウム温泉へ・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 河内小阪駅 受付9時半~11時
河内小阪駅(受付)~アーケード商店街~司馬遼太郎記念館~彌栄神社~八戸の里
公園~若江城址碑~若江鏡神社~蓮城寺~木村重成の墓~山口重信の墓~福万
寺市民運動公園~恩智川治水緑地~池島弥生橋~東花園駅~花園ラグビー場(昼
食)~東花園駅~新今宮駅~ジャンジャン横丁~通天閣~ラジウム温泉~天王寺
園~天王寺駅(合流)7人で昼飲み会~2次会は4人でカラオケへ、楽しい一日でした。
此の日の私の万歩計は、24929歩で約16.7km歩いたことに・・・・
志都美駅へ向かう
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葛下川
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西名阪自動車道の高架
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志都美駅で葛城山~二上山を撮る
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久宝寺駅でおおさか東線に乗り換え
河内永和で近鉄奈良線に乗り換え、ホームで色んな電車、阪神電車も
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河内小阪駅へ
河内小阪駅で受付、知人と合流してアーケード商店街へ
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司馬遼太郎記念館へ向かう
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司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎の生家と建築家安藤忠雄氏設計による建物で構成されています。安藤
氏は「蔵書で囲まれて闇に包みこまれたような、かすかな光の空間のイメージ」を原
点に、周辺の環境とも調和するように設計されました。館内は高さ11mの吹き抜け
空間に大書架が広がり、約2万冊蔵書をイメージ展示しています。
入館料:大人・大学生500円のところ今回のハイキングマップ提示で2割引(400円)
※司馬遼太郎(しば りょうたろう)
1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家、ノン
フィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬
遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送
る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、
戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイ
などでも活発な文明批評を行った。
。。。。。1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より
『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。
記念館の庭で
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彌栄神社・いやさかじんじゃ(通称やえじんじゃ)
祭  神:素盞嗚命、天穂日命  境内末社に弥栄稲荷神社がある。
創建年代は不詳も明治以前は、牛頭天王宮あるいは祇園様と称せられた
鎮座地は、旧大和川の枝流、久宝寺川の東岸近くに位置し、鬱蒼とした老杉・松・樅
林の中に祀られていたが、天正年間(1573~1591)の天正の役・石山合戦の際、村
落共に兵火により灰燼に帰した。のち慶長五年(1600)正月、時の領主、片桐且元
により社地を拝領、社殿を再建復興したという。元禄時代の当社寺社御改帳に記載
された寸法、様式、絵模様から現存の本殿はこの時代のものとすいさつされるという。
(彌榮神社由緒より)
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八戸の里公園~若江城址碑
※八戸の里公園
この付近は昔から浸水が多かったので、その対策として公園の地かには調整池を
作り、大雨の時には一時的に雨水を貯留し下水道や河川へ雨水が一挙に流れ込
む事を防いでいます。
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若江城址碑
若江城は、1382年 畠山基国によって築かれ、国を治める為の守護所(役所)とした
大きな城であり、城下町も存在したと思われますが、石山合戦が終了した直後の
1580年に廃城となりました。府道を挟んで、北側に若江城址の碑、南側には楠の巨
木の元に「社」と刻んだ巨石などがあり、この付近を中心とした南北400m、東西300
m位の範囲が若江城跡です。
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若江鏡神社
延喜式に乗せられている古社で、代々若江城主が崇敬し、社領を寄進していたとい
われ、若江城の廃城と同じくして織田信長により没収されたといわれています。
北隣には木村重成の位牌が祀られている連城寺が有ります。
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蓮城寺・・・妙法山 蓮城寺(みょうほうざん れんじょうじ)
木村重成の本陣が置かれていた地には、現在、蓮城寺が建っており、その境内
には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在します。
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第二寝屋川を渡る
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此の続きは、
2月16日の司馬遼太郎が暮らした東大阪の街歩き-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿致しました。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-02-20-1
続きは、木村重成の墓~
木村重成の墓
母親が豊臣秀頼の乳母であったことから、重成は幼少時より秀頼の小姓として仕えて
いたとされます。夏の陣にさきがけておこなわれた冬の陣では今福砦の戦いで活躍し、
その武勇を全国にとどろかせています。当時、重成の本陣が置かれていた地には、現
在、蓮城寺が建っており、その境内には重成の肖像画を安置した位牌堂も存在します。
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第二寝屋川を渡って
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山口重信の墓
木村重成の墓と恩智川を挟んだ対岸には、山口重信の墓も残されています。重信は
井伊勢に参加していた東軍の武将。重信は旧領の回復を願って東軍に参戦していま
したが、若江の戦いで戦死。しかし、その死によって、重信の宿願は後にかなえられた
のでした。重信のお墓は、1647年、重信の三十三回忌に際して建てられました。両軍
の武将の墓が恩智川を挟んだ両岸に残されている点は当時の合戦の様子を伝えたも
のでもあり、東西両軍が激しい戦いを繰り広げた若江の戦いを象徴する構図である・・。
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福万寺市民運動公園~恩智川治水緑地~池島弥生橋
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恩智川治水緑地は、平常時には運動公園や公園、イベント会場として府民の方々
に利用していただき、大雨の時には河川からの洪水を一時貯留することにより浸水
被害を防止する施設です。
河内のムラ、池島・福万寺遺跡では、3500年前の縄文時代後期の人が使った土器に
はじまり、弥生時代・古墳時代のムラや水田、奈良時代から現代につづく水田など、
河内に住んだ人びとが作ったもの、使ったものがたくさんみつかっている。
本遺跡は、縄文時代晩期から江戸時代にかけての生産遺構が出土したことで知られ、
弥生時代の水田遺構、近代まで連綿と継続する農耕に伴う遺構、古墳時代の住居跡
などが検出されているほか、土器を中心とする各時代の遺物が見つかっている。
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恩智川沿いを東花園駅へ向かう
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東花園駅~花園ラグビー場(昼食)
ラグビーの聖地!「東大阪市花園ラグビー場」
大阪市花園ラグビー場は、日本最初のラグビー専用グラウンドとして開場しました。
全国高等学校ラグビーフットボール大会、ジャパンラグビートップリーグをはじめ
数多くの国際試合など、ラガーの檜舞台にふさわしい3万人収容のスタジアムです。
充実のプレーと快適な観戦をバックアップする設備が整っています。
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東花園駅~新今宮駅
ジャンジャン横丁~新世界~通天閣
ジャンジャン横丁(ジャンジャンよこちょう)は、大阪市浪速区恵美須東3丁目東部を
南北に貫く商店街。「ジャンジャン町」ともいう。新世界の南東部に位置しており、全
長約180m。アーケードはあるが、横幅は2.5mほどと非常に狭い。それが却って活
気を醸し出している。
「ジャンジャン横丁」は通称で、正式名称は「南陽通商店街」である。
1918年に開業した飛田遊廓(1958年廃業)と新世界をつなぐ道筋として1921年、橋
本傳三郎の尽力で開通した。当時の地名は橋本の出身地である島根県の旧国名に
因み「石見町」と称していた。開通当時は関西本線を地下道でくぐる計画であったが、
地元の反対にあい、踏切となった(紆余曲折の末、1923年ごろに地下道が開通)。
当時としては一級の歓楽街であった新世界と花街をつなぐルートだったため、多くの
酔客が出入りし、それを目当てに飲食店や男娼店、淫売店が急ごしらえで造られた。
当時は肩をよけないと通れないほどの雑踏が、軍艦内の通路に似ていることから
「軍艦横丁」と呼ばれていた。
戦前、商店街北側には、噴水を設置した円形浴場やサウナ風呂、演舞場、食堂などを
備えた「噴泉浴場」(通称・ラヂューム温泉)という総合娯楽施設があった。1945年の
大阪大空襲で焼失した後、1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態
変更して復活。近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、
新世界名物として知られるようになった。
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ラジウム温泉
大阪府大阪市浪速区の新世界のど真ん中シンボル通天閣。通天閣の真下に、レトロ
な銭湯ラジウム温泉があります。創業以来62年営業を続けている老舗銭湯です。
広島県人形峠にあったラジウム鉱山の石を独自に入手して露天風呂に沈めています。
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風呂から出て
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天王寺公園~天王寺駅(合流)
甘太郎・・・7人で昼飲み会
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2次会は4人でカラオケ、ジャンカラへGO-、
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2月14日の馬見丘陵公園-1

2月18日         2月14日の馬見丘陵公園-1
                 河津桜と梅林が・・・
河津桜と梅林が気になって早朝の散歩に馬見丘陵公園へ行ってみました。
家内を職場へ送って行きその足で馬見丘陵公園へ、気になってる河津桜と
梅林の開花状況を見に何時もの竹取り公園駐車場へ向かったが閉鎖された
ままで入れず、南エリアの駐車場へ回ったが此処も閉鎖されてて公園を一回
りして北エリアも未だ閉鎖、もう一度竹取公園へ向かう途中で丁度中央エリア
の駐車場が開いていたので、竹取公園へ行かずに此処から入る事にした・・・
家内を職場に送って
7時24分に日の出を撮り、馬見丘陵公園へ向かった
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7時45分
中央エリアからスタート
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結びの広場を通りナガレ山古墳
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蝋梅と梅を撮り、陸橋を渡り
ダダオシ古墳&ダダオシ池をみて三吉2号墳
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整備途中の巣山古墳を見て、蝋梅&山茶花
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佐味田狐塚古墳~河津桜を1本づつ確認した
巣山古墳前丘の周囲の1本に漸く花を2輪見つけた
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此の続きは、
2月14日の馬見丘陵公園-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-02-19
続きは、墳観橋(陸橋)を渡って梅林へ
梅林~
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梅林から見る佐味田狐塚古墳
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梅林
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倉塚古墳
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上池
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一本松古墳
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下池
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古墳の丘(カタビ古墳群)
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下池の向こうに見えるのは一本松古墳の全景
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古墳の丘(カタビ古墳群)を横から
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菖蒲園の向こうのこんもりとした丘は乙女山古墳
小雪が舞って来たので此処から引き上げる
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古墳の丘(カタビ古墳群)の裏からも登れる
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中央公園館の横へ戻った
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2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-1

2月15日     2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-1
              近鉄あみま倶楽部会員限定ハイキング
今回の会員限定ハイキングには、知人と3人で参加、往復にバスを各々1時間弱使う
五條市でのハイキング、バス料金だけでも2130円、それでも楽しい1日が過ごせた・・
コース あみま倶楽部会員限定ハイキング 大和八木駅受付9:30~10:00歩程約9㎞
大和八木駅(受付)~バス(1030円)~国道三在バス停~栄山寺~吉野川川原景勝地
(昼食)~栄山寺橋~野原御霊神社~金剛寺~岡松家長屋門~辯天宗総本山如意寺
~大川橋~五條 まちなみ伝承館~新町通り~幻の五新鉄道遺構~民族資料館(長
屋門・天誅組資料)~桜井寺(天誅組本陣跡)~五条バスセンター~バス(1090円)~
大和八木駅(ゴール)。1人だと行かない色々な所へ3人で参加したから行けて良かった。
志都美駅へ向かう
志都美駅
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高田駅で近鉄に乗り換え
大和高田駅
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大和八木駅(受付)~奈交バス~国道三在バス停へ約1時間
国道三在バス停をスタート栄山寺へ向かう
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栄山寺橋
深い谷すじを流れてきた吉野川は、栄山寺橋の先から下流は五條の
盆地に流れ込み、広い河川敷を伴うようになります。
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栄山寺
音無川(吉野川)を眼下に望む榮山寺は藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になる
まで栄華をほしいままにしました。創建は養老3年(719)藤原武智麻呂公によると
いわれています。
古来は前山寺あるいは崎山寺と呼ばれ、いつしか「榮」の字が当てられたといわれ
ています。「崎」とは岩が川の瀬に張り出したところ、そこには美しいよどみができ、
瀬音が消えます。榮山寺前の吉野川を「音無川」と呼ぶのはこのためで、川の水色
は深みのある瑠璃色、青磁色をしています。
この榮山寺には特筆すべきものも多く、法隆寺夢殿とともに奈良時代を代表する
国宝「八角堂」や宇治平等院の鐘とともに「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘
は、表面の銘文は撰者が菅原道真で筆者が小野道風と伝えられます。
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八角堂(国宝)
武智麻呂の子、仲麻呂が父母追善供養のため天平宝字年間(757-765)に建立。
夢殿に似たこの堂は、内壁などに極彩色の仏画が残り、天平時代を代表する唯一
のものともいわれています。
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梵鐘(国宝)
高さ157.4cm、口径89cm、青銅製。4面に菅原道真の撰、小野道風の書と伝えら
れる陽祷の銘文があります。龍頭の精巧なこと、鐘身の美しさも含めて、京都神護
寺、宇治平等院の鐘とともに日本三名鐘の一つとされています。

石燈籠(重要文化財)
榮山寺形といわれる石灯籠は、弘安7年(1284)の銘がある鎌倉時代の遺品。日本
二百撰の石灯籠の仲で、8番目にランクされるといわれています。(総高243cm)
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吉野川景勝地(昼食)・・・音無川・奇岩?景勝地
眺望地点 水辺景観 吉野川の景観
奈良時代に創建された栄山寺の前を流れる吉野川は音無川とも呼ばれ、栄山寺
で修行していた弘法大師が筆を投げ入れ静かにさせたと言われています。
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栄山寺橋へ向かう
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栄山寺橋を渡る
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金剛寺へ向かう
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野原御霊神社・・・覗いただけですが?
神文の付いた[御霊宮・天満宮]の神額を掲げています。
慶安4年(1651)に霊安寺の御霊神社から勧請されたようです。右側に並ぶ菅原
神社は慶安3年(1650)に京都の北野天満宮より勧請されています。参道入り口
には「奉献願主当村東町綿屋惣兵衛天保八酉歳(1837)九月吉日」とある一対の
狛犬と、「御霊宮」「常夜燈氏子中 寛政十戌午年(1798)九月吉日」と刻む一対の
大石灯籠があります。祭神;井上内親王・相殿に菅原神社(菅原道真公)
末社;山王神社(大名持命)、春日神社(春日四柱神)、少名彦神社
境内社;猿田彦神社(八衢彦神・八衢姫神)、大山祇神社(木花咲耶姫命)
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此の続きは、
2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、金剛寺~
金剛寺
金剛寺は今から800年前、平安朝の文化人、小松内大臣、平重盛公の創建による
古寺と伝えられています。歴史と信仰を有する名刹の古寺でもあり、現在は高野山
派に属する真言宗となっております。
関西花の寺二十五霊場23番、西国薬師四十九霊場第9番札所である。
金剛寺は1173年(承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城
主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、 光仁天皇の皇后、井上内親
王(いがみないしんのう)と その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺
として さらには仁和寺直末の中本寺として栄えた。1822年(文政5年)当時の本常
和尚が薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとして、ボタン寺として親しまれ、
毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催される。期間中、境内の吉野川
を借景とする 約2,000平方メートルのボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。
また、秋には、キクが咲き、小菊まつりが開催される。
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岡松家長屋門(おかまつけながやもん)
江戸時代に野原村の代官を務めた家の屋敷を囲みます。市道に面して伸びた
長屋門の内側に、主屋と書院が建ちます。江戸前期の様式です。
奈良県指定文化財に指定されています。内部は非公開。
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辯天宗総本山如意寺
辯天宗は昭和27年に宗祖智辯尊女により立宗されました。
大辯才天女尊を御本尊とし、御本尊のおしえ「水のおさとし」の実践を通して、世界の
人々が「みんな仲良く楽しく暮らせる世界」の実現を目指しています。
昭和9年4月17日、奈良県五條市野原町の十輪寺住職、大森智祥師の妻、清子さま
(後の智辯尊女)は、大辯才天女尊の天啓を受け、その神示により、苦しみ悩む幾多
の人々を救う苦衆救済活動をお始めになられると共に、天啓の際に大辯才天女尊よ
り授けられた「おしえ」を「五行のお諭し」としておまとめになられ、大辯才天女尊の御
心を人々にお説きになられました。昭和27年1月10日、智辯尊女を宗祖とし、宗教法
人辯天宗が立宗されました。
また、昭和29年10月、十輪寺に隣接して総本山・宇賀山妙音院如意寺を建立、全国
教化への礎が築かれました。その後、昭和37年、東京の向島に東京本部(昭和52年
東京渋谷区に移転、現東京別院)を設置。そして、昭和39年、大阪府茨木市に辯天宗
第2の霊場として飛龍山冥應寺(辯天宗本部)が建立されました。
現在、全国に支部・教区・教会が設置されているほか、ハワイ、香港、韓国、バンクー
バーなど海外においても教区、支部が設置されています。また、智辯尊女は、教育・福
祉にもお力を注がれ、その御意志により、福祉法人ちべん保育園、社会福祉法人祥水
園、学校法人智辯学園が設立されています。
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※辯天宗(べんてんしゅう)
辯天宗(べんてんしゅう)は、大森智辯によって開かれた、日本の仏教の宗派。高野山
真言宗の流れを汲み、仏教系新宗教に分類される宗教法人である。大阪府茨木市に
本部を置く。宗紋(シンボルマーク)は桔梗紋。桔梗は奈良県五條市の市花(1982年
(昭和57年)に公募により制定)でもある。
系列の智辯学園高等学校、智辯学園和歌山高等学校は、高校野球の強豪、甲子園
常連校として全国的に有名である。
※大辯才天女尊
弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神で
あるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合
によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。
※十輪寺(辯天宗始まりの寺)
十輪寺は奈良時代前半に行基が草庵を設けたのが始まりと伝えられ、その後弘法
大師空海が立ち寄り、桜の杖を植えた所から桜の木が生え、そこに十輪寺が建立
されたといわれている。開創の経緯は不詳である。
1934年、十輪寺住職・大森智祥の妻・大森智辯が門前に祀られている辯才天女尊
の天啓を受けて、信者などの相談にのったことが辯天宗の始まりとされている。
十輪寺に隣接して辯天宗総本山如意寺が建立されている。

まちなみ伝承館へ向かう
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大川橋(吉野川を渡る)
まちなみ伝承館へ向かう
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五條 まちなみ伝承館・・・五條市HPより
江戸時代の風情を残す新町通り。そのまちなみのシンボルとして、平成16年2月1日、
まちなみ伝承館がオープンしました。明治から大正にかけて建築され、民家として実
際に使用されていた建物を改修整備して完成したこの施設は、往時の風情を今に伝
えています。施設内にはまちなみの歴史や文化などに関する資料を展示し、自由に
ご見学いただくことができます。駐車場やトイレも開放しておりますので、まちなみ散
策の拠点として、是非お立ち寄りください。
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五條 新町通り
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幻の五新鉄道遺構・・・五條市HPより
明治末期、五條市から十津川をつたい新宮市までを結ぶ「五新鉄道」の建設熱が高ま
りました。昭和12年(1937)から着工され、吉野川横断の橋脚、生子トンネルの貫通ま
で至りましたが、太平洋戦争が始まり資材不足等の理由で、工事は中断されました。
戦後、工事が再開され、昭和34年(1959)に五條-城戸間の路盤工事が完成し、軌道
敷設等の工事を残すのみとなりましたが、経済社会情勢等の変化によって、五新鉄道
の夢は叶うことなく中断されました。
現在、跡地の一部は路線バス専用道や、宇宙のなぞを解明する研究所「大阪大学コス
モ観測所」として利用されています。また、平成9年(1997)にカンヌ映画祭カメラドール
賞(新人監督賞)を受賞した河瀬直美監督の映画「萌の朱雀」は、五新鉄道と西吉野村
の雄大な自然等を物語りの素材にしています。 2008年3月から上映された映画『花影』
のロケ地にもなりました。
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民俗資料館(長屋門)・・・天誅組資料へ向かう
民俗資料館(長屋門)・・・天誅組資料
幕末の土佐藩士、尊皇攘夷派。土佐藩脱藩第一号の吉村虎太郎が明治天皇の
叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜けて大和に入り天誅組を結成する。
天誅組は尊皇攘夷派の武装集団で、桜井寺を本陣に五條御政府を名乗りました。
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※吉村虎太郎 伝・・・吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)
天保8年(1837年) - 文久3年9月27日(1863年11月8日)。自刃 享年27歳。
幕末の土佐藩士。尊皇攘夷派。天誅組の一人。諱は重郷。出身地は高知
高岡郡津野町。土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。
12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。
6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。その間高知城
下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市
半平太(瑞山)の門に出入りした。
文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞
と会見する。文久2年(1862年)2月、武市の密旨を含んで長州藩の久坂玄瑞を訪
ね、伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰郷するのだが、情勢の切迫に激して、3月
6日同志宮地宜蔵と約して脱藩、長州を経て大阪に留まる。土佐藩脱藩第一号。
この時期、逃亡中だった清河八郎と出会い、薩摩島津公を擁しての挙兵を画策して
いた清河八郎と意気投合する。4月23日同志と伏見に集結した。しかし、同日伏見
寺田屋の変のため計画が破れて藩に拘束されるがすぐに放免される。
文久3年(1863)明治天皇の叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜け大和に入り天
誅組を結成する。五条代官所を襲撃し桜井寺に本陣を置いた。同年8月、前侍従中
山忠光を擁して、藤本鉄石、松本謙三郎らと大和に挙兵、「天誅組」と称して五条代
官所を襲撃した。「天誅組の変」である。しかし、8月18日の政変により尊攘派が中央
政界から追い出され、後ろ盾を無くし十津川に逃げてそこを根拠地とし、高取城を攻
めるが大敗。この戦闘で重傷を負って逃亡し、吉野郡高見村鷲家口に隠れるが、そ
こも襲撃され逃げ場を無くしその場で自刃する。享年27歳。
※天誅組の盟主
中山忠光 なかやまただみつ 1845-1864(弘化2-元治元)
天誅組の盟主、公卿。大納言中山忠能の第七子。忠光の姉中山慶子と孝明天皇の間
に生まれた祐宮がのちの明治天皇だから、忠光は明治天皇の実の叔父にあたる。中
山家で生育された明治天皇が宮中にもどると、安政5年(1858)忠光も待従として出仕
するようになった。公卿中もっとも過激な尊攘派で、文久2年(1862)9月、自らその頃
京都三条にいた土佐勤王党の武市瑞山のもとに直接訪れ刺客の貸与を申入れるなど、
当時の公卿としては破天荒の行動をとっている。また和宮の降嫁問題に憤激し尊攘派
志士と結んでそれを推進した三卿両嬪を弾劾して辞官落飾を強制した。ついで翌文久
3年3月、忠光は土佐の吉村寅太郎の誘いをうけて、賀茂行幸の供奉のあと無断で京
都を脱出、摂津沿岸を巡見しそのまま長州に走って名も森秀斎と名のり、折から5月
10日、長州藩の馬関攘夷に参加して自ら軍艦庚申丸に搭じて外艦を砲撃した。6月に
は吉村らと再び帰京、真木和兵、桂小五郎、久坂玄瑞ら尊攘激派の中心人物とさかん
に会合をかさねていたが、彼らの画策が効を奏してこの年8月13日ついに大和行幸、
攘夷親征の詔勅が出た。その先駆けたらんとし、忠光を盟主として天誅組が結成され、
吉村寅太郎、藤本鉄石、松本杢堂らが中心になって大和五條の代官所を襲い代官鈴
木源内を斬って討幕の第一声をあげた。だが京都では8月18日の政変によって長州
系尊攘激派は敗退し、大和行幸は取消されたため天誅組は孤立してしまった。頼みと
する十津川郷士も離反し、作戦上の意見の違いから忠光ら本隊と河内勢も別行動をと
ることになり、本隊は各所を転戦、敗走を重ねながら驚家口の戦いで大きな犠牲を払う
ことで、忠光を長州に脱出させることに成功した。この頃しばらく下関の白石正一郎邸
に潜んていたが、長州藩は幕府を恐れてさらに辺鄙な豊浦郡田耕村の山中に送りこん
だ。そして元治元年(1864)11月15日、この山中で長州藩からさし向けられた数人の
暗殺者に絞殺された。享年20歳。
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桜井寺・・・天誅組本陣跡&五条代官首洗いの手水鉢
10世紀中期、桜井康成の創建と伝えられる寺院で、本尊は阿弥陀如来。江戸末期、
五條代官所を襲撃した天誅組が本陣としたことで知られています。境内には、討ち
取った代官の首を洗ったという手水鉢があります。
天誅組は尊皇攘夷派の武装集団で、桜井寺を本陣に五條御政府を名乗りました。
桜井寺の門前には、「史跡天誅組本陣跡」の碑があります。
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※五條市出身の有名人
鍵屋弥兵衛(江戸時代の花火師)
江戸(隅田川)の花火を発展させた花火屋。中でも鍵屋と玉屋は、人気を二分した
花火屋の屋号である。鍵屋弥兵衛は慶安3年(1650)に大和国(現五條市大塔町)
から新町村(現五條市新町)へ移り、黒色火薬の製造所で働いていました。やがて
火薬製造の技術を極めていった弥兵衛は、1659年(万治2年)に江戸へ出て、日本
橋横山町で「鍵屋」の看板を上げ、初の民間花火業者として活躍しました。

楳図かずお(漫画家)
五條市にゆかりのある漫画家・楳図かずお先生にちなんで、五条駅近くに紅白スト
ライプのほこら「まことちゃんハウス」が建てられ、そこに『まことちゃん地蔵』が安置
されている。「まことちゃんハウス」の外観は、もちろん楳図先生がトレードマークとし
ていらっしゃる、紅白ストライプに塗られています!ハウスの中には、フィギュア「まこ
とちゃん地蔵」が、左手を「グワシ」(中指と小指だけを折り曲げたもの。意外と難しい
んです)のポーズをしています。

五條バスセンター~大和八木駅

2月11日の酒蔵みてある記(株)北岡本店「やたがらす」-1

2月12日     2月11日の酒蔵みてある記(株)北岡本店「やたがらす」-1
                 近鉄駅フリーハイキング 歩程約6km
知人と2人で参加、吉野株式会社北岡本店「やたがらす」へは未だ一度も訪問
した事が無く、ハイキングコースとしても初めて歩く所、天気にも恵まれて期待通
りの良いハイキングになりました、日が出てて雪もチラチラ、又最高の雪景色・・・
私の万歩計は17717歩で約11.9km歩いたことに・・・参加者570人くらい?
コース 近鉄駅フリーハイキング  吉野神宮駅受付9時半~10時半
吉野神宮駅(受付)~本善寺~大名持(おおなもち)神社~北岡本店・試飲・酒粕
つかみ取り・抽選会~上市蛭子神社・甘酒~三奇楼(さんきろう)~大和上市駅
丁度、上市蛭子神社大祭・初市で大賑わい、神社でも甘酒のふるまい有りえびす
市場ではお酒の試飲や鹿肉みその試食、お茶や揚げたてコロッケ、えびすうどん、
参道には色々な出店が有り、お祭り気分も堪能して帰りました。上市初市最高!
北岡本店「やたがらす」では利き酒と試飲で2度楽しみ、酒粕つかみ取りも最高!
大和上市駅で電車に乗ると大量の酒粕をお持ち帰りの方も、どうするんだろう?
志都美駅へ向かう
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西名阪高速道の高架
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志都美駅
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駅舎から見る
葛城山(積雪が)と二上山(少し雪化粧)
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志都美駅ホーム
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畝傍駅で降りて八木西口駅で近鉄に乗り換え
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橿原神宮前駅~吉野神宮駅へ
吉野神宮駅ホームで受付を済ませる
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吉野神宮駅を出て
駅前に吉野神宮の大鳥居(一の鳥居?)
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※吉野神宮
明治22年(1889)、明治天皇により創建。祭神は後醍醐天皇。
社殿は昭和7年(1932)の改築で、本殿、拝殿などは全て檜造り。
近代神社建築の代表 作として高く評価されています。
吉水神社から移された天皇像は、後村上天皇が彫ったものと伝えられています。
境内には建武中興の巧臣7人が祀られている摂社3社があります。

吉野水分神社・・・氏神様
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※吉野水分神社
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区
(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。葛城水分神社・都祁
水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰
されてきた。
水を司る天之水分(あめのみくまり)大神を主神とし、"みくまりが"御子守"(みこもり)
となまって、俗に子守さんと呼ばれ子宝の神として信仰されています。
社殿は豊富(臣)秀頼が再建したもので、本殿、拝殿、弊殿、楼門、回廊からなる桃山
時代の大変美しい建築です。

本善寺へ向かう
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本善寺
飯貝御坊ともいわれます(浄土真宗本願寺派) 六雄山「本善寺」です。
本願寺第八世蓮如上人が、文明8年(1476)に吉野地方への真宗布教の拠点
として創建した名刹。明応4年(1495)に蓮如の子兼継が入寺し開基。
下流下市の願行寺とともに 、吉野門徒の信仰の中心となってきました。近世
には吉野86ヶ寺を束ねて隆盛を得ています
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吉野杉の貯木場
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いもせばし(妹背橋)
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此の続きは、
2月11日の酒蔵みてある記(株)北岡本店「やたがらす」-2 として
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続きは、吉野川~
吉野川
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大名持(おおなもち)神社
創祀年代は不詳。竜門郷二十一ケ村の郷社。 交通の要衝(伊勢街道と東熊野
街道の分岐点)にあり、式内社・大名持神社に比定されている古社で、延喜の制
では、名神大社であり月次相嘗新嘗の幣帛を賜った大社。『三代実録』によると
「正一位」を授けられており大和では春日大社に匹敵する神社であった。
大汝宮、大海宮とも記された神社。社前の吉野川潮生淵に毎年六月三十日に 海
水が湧き出るとの伝えがありこの淵で禊をする「大汝詣り」で有名らしい。
祭神は大名持御魂神。少彦名命を配祀しているが、少彦名命は本来、対岸の背山
に祀られていたという。
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伊勢街道を北岡本店へ向かう
庚申堂&醤油屋
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北岡本店「やたがらす」・試飲・酒粕つかみ取り・抽選会
北岡本店
北岡本店は、「日本古来の酒造り技術を伝承し、おいしい酒を通じて、心温まる人間
関係の成立に寄与する」をめざすものとして酒造りに取り組んでいます。
江戸時代の初め頃、(約400年前)吉野は山林労働に携わる人たちが一泊する宿場
町として、また大和から伊勢、熊野に抜ける交通の要として栄えていました。「やたが
らす」の北岡本店はその宿場町の中心地に店を構え、創業者惣兵衛は古金屋(換金、
手形の取扱い)を営んでいたといい、七代目になって惣十郎が明治元年(1868)酒、
醤油、油造り等の事業を一本化し、酒造業専業に切り替えました。
「やたがらす」とは神話に出てくる瑞鳥です。神武天皇が東征の際に熊野から大和に
入る吉野の山中にて道に迷われました。その際に天の神が道案内としてつかわした
鳥が「やたがらす」であると言われています。
「やたがらす」とは大きい鳥という意味であり三本足のカラスで中国や日本では太陽
の精として信じられています。法隆寺の玉蟲の厨子後側の密陀絵に三本足のカラス
の象徴の日輪があります。熊野本宮、那智、速玉の三社の御神鳥、また橿原神宮で
は交通安全の守護神として祭られています。また、日本サッカー協会での旗章に採用
され日本代表のエンブレムになっています。北岡本店では大正時代、惣太郎が吉野と
かかわり深い神武天皇の伝説にちなみ「八咫烏」を商標としました。
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上市尋常高等小学校跡碑
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えびす市場(フリーマーケット
大七 沢井酒店・お酒の試飲・販売
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蛭子神社の初市(上市初市)
上市蛭子神社
吉野町上市にある恵比須神社です。蛭子(ヒルコ)はイザナギとイザナミとの間に
生まれた最初の神とされますが、不幸にして葦の舟に入れられオノコロ島から流
されてしまいます(ナイル川に流されたモーゼ出生に似ていますね)。この流され
た蛭神が流れ着いたという伝説は全国にあります。このようにして蛭子は海の神
様として、後には市場の神様として発達しました。蛭子神はエビス神とも呼ばれ、
一般には「えべっさん」と親しまれています。この上市の商売の神様「蛭子神社jを
中心として、1年で一番最初の一が初市で、毎年2月11日に行われます。
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上市蛭子神社・甘酒ふるまい
三奇楼(さんきろう)・朝市&カフェ
「三奇楼」 は吉野川と対岸の風景を望む、静かな環境にあります。 室内は、随所
に吉野らしさが感じられる落ち着いた空間です。 客室は、全4室。一階には、10畳
と6畳の和室。二階は、8.5畳と6畳和室。最大15名程度のお客さまにご利用いた
だけます。 連泊でのご利用も可能ですので、吉野での暮らしをひととき体験するこ
とができます。 自然豊かな環境でゆったりと過ごしてみませんか。 吉野町や奈良
県南部の観光拠点にも、ご利用ください。 「移住体験スペース・ゲストハウス 三
楼(さんきろう)」は、吉野町上市の元料亭旅館を地元の有志「上市まちづくりの会
リターンズ」が中心となり、改装し完成させました。

※上市の路地にひっそりと佇む、三奇楼。
かつてはこの場所に料亭旅館として使われていた建物がありました。
当時には珍しい4階建ての純和風建築で、旅人や木材を運搬する筏師たちの疲れ
を癒すお宿として、利用されていました。 建替えがなされた現在も、玄関のアーチ
門や蔵の姿に当時の名残を見ることができます。上市は伊勢街道筋にあり、かつ
てはお伊勢参りの参拝客が立ち寄る宿場町として栄えました。2月11日に行われる
戎神社の初市では、現在も通りに露庖が立ち並びにぎわいを見せます。

澤井寺
(浄土真宗本願寺派) 八木山 「澤井寺」です。
創建は定かでは有りませんが、文明の頃(1469~87)、澤井慶淳の開基と
伝わります。旧上市村の惣道場だったようです。室町時代の什物が多く残っ
ているそうです。文化から天保(19世紀初頭)にかけて本堂他修築されてい
ます
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大七 沢井酒店・・・フリーマーケットで試飲させてた
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大和上市駅
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前に見える山は雪
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五位堂駅&二上山
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2月9日の雪化粧

2月10日          2月9日の雪化粧

2月9日、今シーズン初の雪化粧らしい雪化粧!(*^_^*)
此れくらいだと綺麗だが雪国にお住まいの方々はこの何十倍もの雪で
大変だろうなと、改めて思った・・・  積雪2㎝くらいかな?解らない。
朝起きて戸を開けた時はこんな感じ
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未だ大丈夫
大和高田市の病院に着いた時はこんな感じ
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病院の帰りに回転寿司屋の駐車場に入って
未だ雪が降ってる、周りの田畑&里山はこんな感じ
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雪が止んで、寿司屋の帰りに
スーパーの駐車場に入って、こんな感じ
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足元も
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2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-1

2月10日     2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-1
              近鉄駅フリーハイキング  歩程約10㎞
1人での参加だったが、梅もほころび最高のハイキング日和、郡山城への手前
で知り合いに出会い、コース変更、郡山城の盆梅展へは行かず茶店へ・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅~平城宮跡受付10時~11時
大和西大寺~平城宮跡資料館前(受付)~平城宮大極殿~朱雀門~秋篠川~
唐招提寺~養天満宮~薬師寺~秋篠川~九条公園~羅城門跡~郡山城外濠
跡~郡山城跡(盆梅展)~近鉄郡山駅(ゴール)→郡山城外堀緑地~JR郡山駅
受付を済ませて大極殿へ行く途中で此れから受付へ向かう、と言う顔見知りの方、
ご夫婦と会ったがその後のハイキングコース中には会えず残念だった、郡山城へ
の手前で別の知り合いの方に出会い、コースを変更して茶店へだべりに行けた。
郡山城盆梅展へは24日に行く予定にしてるので問題なく楽しい時間が過ごせた。
此の日の私の万歩計は26303歩出約17.8km歩いたことに・・・
大和西大寺駅~平城宮跡へ
平城宮跡資料館前で受付~平城宮跡・大極殿へ
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平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の
平城宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30
個も入る広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大
で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟
中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の
出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、こ
の金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の
敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある。
大極殿から眺めた朱雀門
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大極殿内部
玉座等は修繕中で布で?覆われていた
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大極殿外廻り
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広場へ出て大極殿を撮る
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塀の外へ出て
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第二次大極殿址のすぐ横
西棲
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第二次大極殿(大極殿址)
恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、奈良に都が戻ってからの
大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真
北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置している。第二次
大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命
名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京
大極殿の規模と一致するところから745年(天平15年)に壬生門北に移動したもの
と考えられた為であったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出
され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半
には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿(中央の大極殿)
と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿(東側
の大極殿)の2棟あることがわかった。
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朱雀門の方へ向かう
近鉄電車が通って・・・
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踏切を渡って振り返ると又電車が
遠くの真ん中にぽつんと見えるのは大極殿
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朱雀門
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)
において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からなる
宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏とも呼
ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されてい
た。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要
な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。
714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を冠した
ものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀大路という。
平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、五間三戸
の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城宮跡)。朱雀門の位置
や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1サイズで模型製作が行わ
れる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が1992年に終わると、門本体の
復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工している。
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朱雀門を抜けて
朱雀大路へ出たところで
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棚田嘉十郎銅像・・・朱雀門を指さす銅像?
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう、(1860年5月21日-1921年8月16日)は日本の
植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて奈良県・平城宮
の保存活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
しばしば観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、棚田は場所を知らず答えるこ
とができなかった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡
の保存と顕彰に一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積み
になっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。
      “ 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か ”
これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込み、平城宮の啓発のために
宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。人間関係のトラブルにより
自決。喉を突いたとも割腹したともいわれる。享年62。短刀等の遺品は奈良文化財
研究所に寄贈されている。
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平城京を後に
秋篠川・自転車道へ入る
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みやこばし
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唐招提寺橋
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なかよし公園のベンチで昼食
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秋篠川を渡って
唐招提寺へ向かう
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唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や
東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」
から「唐招提寺」となりました。
門から覗くだけにして
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薬師寺へ向かう
養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公  境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
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此の続きは、
2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿しました。
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-02-10-1
続きは、薬師寺へ向かう~  
薬師寺へ向かう
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薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
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秋篠川自転車道へ出る
薬師寺東塔の修理棟がみえる・西搭も見える
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九条公園へ向かう
明治天皇駐輦之碑(めいじてんのうちゅうれんのひ)
明治41年 (1908)、国意発揚のため同年11月10日から13日まで大和平野一円に
おいて陸軍大演習が実施された。その14日、郡山 秋篠川左岸に4個師団が結隊整
列して閲兵式が行われたとき、明治天皇が車をとめて堤上に立ち観閲された。このこ
とを記念 して、のち大正4年(1915)11月の大正天皇即位の御大典に慶祝碑として
建てられたものである。なお、橋梁工事の際、碑は少々位置を移されてある。
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道路を横断すると直ぐに九条公園
富本銭出土地
九条公園は、昭和60年(1985)に富本銭(ふほんせん)が初めて発掘された場所です。
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富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される
銭貨である。708年(和銅元年)に発行された和同開珎より年代は古い。この貨幣が
実際に流通したのか、厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われ
たに留まったかについては学説が分かれている。
富本銭よりも前の貨幣として無文銀銭が知られている。無文銀銭・富本銭・和同開珎
の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多い。
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大橋を渡ると
常夜灯・・・いわゆ伊勢神宮の“お陰灯篭”
大橋南詰め東側に建てられた伊勢神宮のいわゆる“お陰灯篭”で、文化14年11月
(1817)郡山町中や近隣領地 村々の有志の人たちによって建立されたものである。
また、この灯篭は、昭和11年(1937)の震災によって倒壊し、同8月篤志家9 人が
再建している。今の光源は電球に なっているが当時は油であり灯心とともに箱本が
管理した灯明台である。
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平城宮羅城門跡へ向かう
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平城宮羅城門跡・朱雀大路跡
八世紀初頭、平城京は、東西6km、南北4.8kmにわたる大きな規模に新営され、和銅
三年三月十日、都は飛鳥の藤原京からこの奈良の地に遷された。 新京中央に整備さ
れた朱雀大路の南起点には、高さ約22m、間口約31.8mの雄大なる羅城門を構え、そ
の両翼に高さ約6mの羅城を築いた。 羅城門は国城として開かれ、唐や新羅など海外
諸国の使節賓客は、ここに迎えられ入京したのである。
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郡山城へ向かう
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郡山城外濠跡
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今回はコース変更して此処までで終わり
知り合いと茶店でだべり、此処で近鉄郡山駅とJR郡山駅へ別れて。
JR郡山駅へ向かう、郡山城外堀緑地
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JR王寺駅で降りて信貴山を撮りバス停へ
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2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-1  

2月8日   2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-1
                ※雨天決行 歩程約5㎞
このひは曇り空、幸い雨らしい雨には会わず完歩出来たが、地下鉄の事故や
南海電車の事故で予定の10時半スタート出来ず、おおよそ25分遅れとなって
しまったが、特別企画にしては参加者人数は予想以上の50人超えて59人・・・
コース:地下鉄・北浜駅 大阪証券取引所 五代友像前(受付10時半)
大阪証券取引所 五代友厚像~緒方洪庵旧宅&適塾跡~大同生命・広岡浅子
~福沢諭吉誕生地碑船着き場(昼食)~諭吉誕生地碑中津藩蔵屋敷跡~蛸の
松~五代友厚朝陽館跡碑~五代友厚邸跡(日銀大阪支店)~淀屋橋(解散)
此の日の私の万歩計は、14666歩出約9.9km歩いたことに・・・
大阪証券取引所 五代友厚像前で受付
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五代友厚像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本
の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町(現鹿児島市長田町)生ま
れ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)の
あった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
五代友厚・・・近代の立役者?大阪での実績
・運上所跡(初代税関長)
大阪税関の前身である川口運上所が、ここ川口の地に設置された。
当時の運上所は現在の税関事務と外交事務を行っていた。慶応4年(1867年)、
「五代友厚」(初代大阪税関長、後の 初代大阪商工会議所会頭)が「外国官判
事」に就任し、運上所の事務を行うようになった。明治5年(1872年)11月28日
(税関記念日)、全国の「運上所」(うんじょうしょ)の名称は「税関」に統一され、
川口運上所は大阪税関となった。
・英国視察によって行われた五代の教育革命
現在の大阪市立大学の源流である大阪商業講習所を設立し、日本の教育制度
の充実に力を注いだ。
※五代友厚の功績は書ききれないので以下に項目だけを羅列します
・神戸事件  ・堺事件  ・大阪通商会社・為替会社 ・大阪活版所 ・大阪会議
・金銀分析所の設立  ・造幣寮の設立
・朝陽館・・・五代友厚西朝陽館跡碑
その横には「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑がある。その意味は「足跡」というらしく
「明治天皇が残した足跡」という意味になる。明治天皇は度々大阪に行幸をされてい
て、この「明治天皇聖躅」なるテレパーク敷地内の碑は、明治天皇が西朝陽館を天覧
した記念の碑として、建てられた。
・堂島米会所
・大阪商法会議所設立
大阪経済の復活を願って、財界指導者の有志15名が明治11年(1878年)7月、大阪
商法会議所設立の願書を大阪府知事に提出した。今日の大阪商工会議所の礎である。
・為替手形約束手形条例
・大阪証券取引所設立
大阪は江戸期の金相場会所以来、金融取引の活発な地であり、今日まで大阪経済の
発展を担ってきた。薩摩出身の五代友厚は明治11年(1878年)、大阪株式取引所の設
立に尽力し、大阪の発展に多大なる功績を残した。
大阪証券取引所の前身、大阪株式取引所もまた、友厚の尽力によって設立された。
・大阪商業講習所(現大阪市立大学)創設
簿記、商法学(商学)などを教えるため学校をつくるため、五代は筆頭の創立員となっ
て、鴻池善右衛門、広瀬宰平、杉村正太郎らが加わり、明治13年11月、私立大阪商
業講習所が設立された。当時の入学金は1円であり、五代は多額の寄付金、創立費
を出している。
・市立大阪商業学校となる朝陽館の跡
・五代邸
五代友厚の最初の自邸跡は、現在の大阪市西区靱本町にある「大阪科学技術館」
である。昭和35年(1960年)まで残っていたが大阪科学技術センタービルの建設に
より取り壊され、現在は大阪科学技術館として姿を変えている。新築自邸跡は、現在
の大阪市北区中之島にある「日本銀行大阪支店」である。慶応4年(1868年)から大
阪在勤となった五代は備後町(びんごまち)で暮らし始める。明治2年(1869年)には
梶木町(かじきちょう)へ移り約半年ほど住んだ。翌年に備後町に仮居した後は平野
町に引っ越し、明治4年(1871年)12月から西区靭(うつぼ)北通1丁目(現・大阪科学
技術センター)に居宅を構えた。料亭・加賀伊(かがい)(後の花外楼(かがいろう))で
行われた大阪会議開催前に盟友・大久保利通が長期間宿泊し、碁盤を間に五代と向
き合って日々談義したのはこの靭(うつぼ)邸である。
その後、明治18年(1885年)1月、中之島(現・日本銀行大阪支店)に邸を新築した。同
年8月には東京で療養生活を送り始め、そのまま同年9月25日に東京で逝去した。
・葬儀
五代の棺は東京・築地から横浜、神戸へと船で、さらに神戸から大阪まで汽車で運ば
れた後、中之島の邸に運ばれた。中之島邸にて葬儀が執り行われたが、葬儀には大阪
の恩人・五代を偲ぶ4千数百名の弔問客が訪れ、棺は淀屋橋を南に渡り東へ、心斎橋
筋を南下して高麗橋(こうらいばし)通を東へ堺筋まで行き、堺筋を南下し、阿倍野墓地
に向かった。
・五代友厚の恵まれた環境
五代は小松清廉や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。長州藩の高杉
晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。このように一流の人物たちと関わり
合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。加えて、五代が役立てたも
のは英語力である。当時から外交に英語力は欠かせなかった。特に薩摩藩城代家老小
松清廉には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見た。
・五代友厚の悪に対する厳格な態度
友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。新政府が諸外国との交渉
窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。この頃、大阪で
は日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購
入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いま
でもが平気で行われていた。五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一
切の妥協を拒んだ。次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも
厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展
した。しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱
税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。
商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾
弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。五代は商人である前に
「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出
来ない性分だった。
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次の緒方洪庵旧宅&適塾跡へ向かう
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緒方洪庵旧宅&適塾跡
大阪府大阪市中央区北浜にある邸宅跡。緒方洪庵は1810年(文化7)、備中国(岡山)
足守に生まれ、江戸と長崎で西洋医学と蘭学を学んで大坂に帰り、1838年(天保9)に
瓦町に家を構え、医師を開業するかたわら、私塾、適塾(適々斎塾)を開いた。1845年
(弘化2)に現在の北浜に邸宅を移し、1862年(文久2)に幕府の奥医師として江戸に迎
えられるまでの17年間、医学だけでなく蘭学や西洋の近代科学を指導した。適塾には
3000人近くが学び、大村益次郎(ますじろう)、橋本左内(さない)、福沢諭吉(ゆきち)、長
与専斎(ながよせんさい)ら、新しい時代を開く先駆者を輩出。邸宅は1941年(昭和16)
に国の史跡に指定された。
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大同生命へ向かう
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到着、此の後2班に分かれて・・・
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広岡浅子と大同生命
大同生命は、1902(明治35)年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営
していた加島屋(かじまや)が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との
合併により設立されました。
江戸時代、大坂有数の豪商であった加島屋は、明治維新の動乱により家勢が傾きます。
その危機を救ったのが、17歳(数え年。以下同様)で加島屋の次男・広岡信五郎に嫁い
だ広岡浅子です。浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」を座右の銘とし、炭鉱経営
等に参画。さらに中川小十郎をはじめとする有能な人材を招聘し、大同生命の創業にも
深く関わるなど、その手腕を遺憾なく発揮します。加島屋を立て直した浅子は、夫・信五
郎が亡くなった後、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位
向上に尽力します。
1919(大正8)年、71歳でその生涯に幕を下ろした浅子は「普段から言っていることが遺言」
だとして、最期の言葉を残しませんでした。
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外で集合写真を撮影・・・
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此の続きは、
2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
続きは福沢諭吉誕生地碑の船着き場へ向かう~
大同生命ビルを後に
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福沢諭吉誕生地碑の船着き場で昼食
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福沢諭吉生誕地
慶応義塾の創始者である福沢諭吉は天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった
中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれら
れ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途
中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後
に塾頭になっている。3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家
として活躍、慶応義塾を開設した。
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蛸の松
「蛸の松」は、明治を迎えてもその雄大な姿が見られ、『大阪摂津名所図絵大成』をみると、
「枝葉繁茂し四面に垂れ恰も蛸の如し、すこぶる大樹の名木なり、この辺河岸にして景色
もっとも絶景なり」と紹介されています。写真にも多く残されていますが、明治の後半には
枯死してしまいました。現存していれば、樹齢400年前後の巨木ですが、その切り株は現
在、大阪教育大学に大切に保存されています。
平成16年6月、護岸の美化にあわせて、大阪府師範学校附属演習小学校(現大阪教育大
学附属天王寺小学校)が久留米藩蔵屋敷跡地に開校した縁によって、同窓会である雛松
会が、かつての風趣を偲んで、「蛸の松」をこの地に再現しました。
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※昔の蛸の松
中之島は、大阪落城後に豪商・淀屋与三郎によって開発されたのが始まりです。江戸時代
には諸国物産取引の中心地としての地位を築き、諸大名の蔵屋敷が多く設けられ、“天下
の台所”にふさわしい活況を呈していました。立ち並んだ蔵屋敷前には、各藩自慢の松が植
えられ、人々は屋敷の白壁と川面に映る松の景色を楽しんだといわれています。なかでも、
慶長年間(1596~1615)に当時の広島藩主・福島政則が植えたと伝えられる黒松は、枝振
りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と名付けられ、名所の一つとして親しまれてい
ました。
「蛸の松」が川に面して四方に枝を張っていた様子が、『久留米藩大阪蔵屋敷絵図』の屏風
絵でもうかがい知ることができます。久留米藩蔵屋敷の門前にあった「蛸の松」は、月の夕
べや雪の朝の眺めがことのほか美しく、藩でも神木として大切に扱われていました。近年、
周辺地域の発掘調査が進んでおり、絵図でしか、うかがうことができなかった久留米藩と広
島藩の敷地割りが、遺構として確認されました。現在、久留米藩蔵屋敷跡には、大阪大学
中ノ島センターが建てられています。「天下の台所」としての拠点であった蔵屋敷。「蛸の松」
と蔵屋敷の様子が大阪歴史博物館に模型で、展示されています。

五代友厚精藍所西朝陽館跡」の石碑
田蓑橋から阪神高速1号線との間、堂島川右岸のNTTテレパーク堂島第二ビルの前
に「五代友厚精藍所西朝陽館跡」の石碑が立つ。
その横には「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑がある。その意味は「足跡」というらしく
「明治天皇が残した足跡」という意味になる。明治天皇は度々大阪に行幸をされてい
て、この「明治天皇聖躅」なるテレパーク敷地内の碑は、明治天皇が西朝陽館を天覧
した記念の碑として、建てられた。
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淀屋橋へ向かう
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日本銀行大阪支店
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淀屋橋で解散
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2月1日&3日・4日の社友会事務所

2月7日      2月1日&3日・4日の社友会事務所

自宅~社友会事務所の置かれてる八尾工場への道のり?
2月4日は2017年懇話会に出席、八尾工場へ
2月3日は4日の懇話会の会場設営に八尾工場へ
2月1日は歩こう会のHP更新に八尾工場内の社友会事務所へ
志都美駅へ向かう
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葛下川を渡る
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西名阪高速道路の高架
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JR和歌山線の上を高速道路
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志都美駅前
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香芝市のマンホール
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志都美駅駅舎
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志都美駅駅舎から
左が葛城山~右が二上山&西名阪高速道の香芝SA付近
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志都美駅ホームから
チョキパー&ドンキホーテ
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久法寺駅で降りて八尾工場へ徒歩6~7分
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地上へ降りて
八尾市のマンホール蓋
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信号のある横断歩道を渡って
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2月4日自宅へ戻ると高齢者の仲間入り?
社友会から古稀のお祝いが届いていた

1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-1 

2月6日        1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-1 
                近鉄駅フリーハイキング・大和朝倉駅~
今年になって初めて1人で参加した、途中の石位寺で昨年2月に田原本駅~の
ハイキングで御一緒した方とバッタリ出会い、一緒に歩いて、西内酒造~コース
をバスから変更して桜井駅へ約3kmを一緒に歩いた、7km → 歩程約10㎞
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和朝倉駅受付10時~11時 歩程約10㎞
大和朝倉駅(受付)~舒明天皇押阪内陵~鏡女王墓~大伴皇女墓~神籠石~
石位寺~天王山古墳~倉橋溜池~倉梯柴垣の宮伝承地~崇峻天皇陵~聖林
寺~西内酒造「談山」・甘酒・試飲・抽選会~談山神社一の鳥居~桜井駅
抽選には外れたが、天気に恵まれ、同行者にも恵まれ、西内酒造の4種類試飲の
お酒と後の温かい甘酒が美味しかった、同行者とは桜井駅迄歩いて別れて・・・
此の日の私の万歩計は、21755歩で約14.5km歩いたことに
志都美駅へ向かう
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志都美駅
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香芝駅で降りて
鹿島神社・・・鹿島神社のHPより
”香芝”の地名は当社の”カシマ”に由来するともいわれています。
『もりのみやさん』「おうぎのみやさん』とも呼び親しまれ、往古よりこの地の守り神
《鎮守の杜》として、広く皆様から大切にされています。
承安2年(1172)に源義朝の家来の鎌田小次郎政光が常陸国の鹿島本宮の神を連
れてきたのが始まりという記録があります。この地にあった、式内社の深溝神社とす
る説が有ります。祭神;武甕槌大神
鎌倉時代の初期から記録が残されている「結鎮座」けいちんざと呼ばれる氏子の集
団(宮座)があります。民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」が最も古く、昭
和37年に奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館に保管されています。
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近鉄下田駅へ乗り換え
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大和朝倉駅(受付・スタート)
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忍坂街道へ向かう
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玉津島明神
この地は忍阪字生谷(いくだに)で地名のとおり衣通姫の誕生地という伝承が残って
います。祠の横には衣通姫が産湯を使ったという産湯の井戸の石枠組が残されてい
ます。元々の井戸はすぐ横を静かに流れる生谷川の清流沿いにあったという伝承が
あり2011年9月に周辺の一部を試掘したところ地下2mのところから井戸の石組み
と思われる石材が見つかりました。しかし部分的な発掘に加え時代を証明できるよう
な土器類等も見つからなかったので当時のものか断定は出来ませんでした。しかし、
いつの日か幻の忍阪宮跡と共に、この産湯の井戸が発見されるかもしれません。
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※衣通姫
衣通姫は古事記では允恭天皇(19代)と皇后で当地ゆかりの忍坂大中姫(おしさかの
おおなかつひめ)の第五皇女で同母を持つ木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と情を通
じたことで兄は失脚して伊予に流され衣通姫も兄の後を追い共に命を絶ってしまうとい
う悲しい物語が残されています。

舒明天皇押阪内陵・・・第34代 舒明天皇陵
陵墓…押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(忍阪段塚古墳)  上円下方墳
舒明天皇から、八角墳の造営がスタートした。それまでの都塚古墳は大型方墳であり、
その後の推古天皇などの大王墓に方墳が採用されていた。舒明天皇は、天皇中心の
新しい国造りを目指すが、志半ばで倒れる。妻の皇極天皇が後を継ぐ。段塚古墳は、
皇極天皇が造った可能性が高いと思われ、蘇我氏に対抗する意味でも夫の出自や系
譜を示そうと、蘇我系の方墳の四隅を切り取った形の八角形を新たに見出した。
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第34代 舒明天皇
推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御にともない
皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に推されたのは、田村皇子と山背大兄王
(聖徳太子の子)である。結果田村皇子が即位した。第一子は天智天皇となった葛城皇子
(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)で、第二子は天武天皇となった大海人皇子(おおあま
のみこ)である。630年(舒明2年)10月に飛鳥岡のそばの岡本宮に遷り、636年(舒明8年)
6月に岡本宮が焼失、近くの田中宮に遷り、639年(舒明11年)に西の民が百済宮を造り、
東の民は百済大寺を造り、書直懸(ふみのあたいあがた)を技師長にあたる大匠とした。
舒明天皇は再三有馬温泉に行幸、晩年には聖徳太子も行った道後温泉にも行き、リゾート
を楽しまれた。外交に於いても、犬上御田鋤(いぬがみのたすき),薬師恵日を大唐に遣わ
し、初の遣唐使の派遣となり、以後の端緒を開いた。朝鮮三韓との交渉も密に行なわれ、
難波にあった三韓の舘(むろつみ客舎)を修理している。朝鮮半島、唐との直接交渉の他
に屋久島など南島列島への関心を持っていた。遣唐使を初めて派遣し、日本最古の国家
寺院、百済大寺(くだらおおじ)を発願した。

鏡女王墓
舒明天皇陵から東北に見える円墳が、鏡女王(かがみのひめみこ)の墳墓です。平安
時代に出来た「延喜諸陵式」によると『鏡女王・押坂墓』と記載され、大和国城上郡押
坂陵域内東南にあるとなっています。鏡女王は、『万葉集』の古写本には「鏡王女」と
あり、『日本書紀』には「鏡姫王」という名前が記されていますがいずれも鏡女王と同
一人であるとされています。鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉
歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています。はじめ天智天皇の妃で、のち
に藤原鎌足の奥さんになった方と言われています。奈良・興福寺の起源となる山階寺
(やましなじ)は、藤原鎌足が病気のとき、鏡女王によって建立されたと伝えられていま
す。「日本書記」によれば、天武12年(683年)7月4日、天武天皇は鏡女王の宮へ行き
、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。
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大伴皇女墓
大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で古事記には大伴王と記され
ています。兄弟には推古天皇、用明天皇がいます。したがって大伴皇女は聖徳太子
の叔母さんという事になります。この墳墓は平安時代に書かれた延喜式には「大伴皇
女押坂墓」とされ現在、宮内庁で管理されています。
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もう一度舒明天皇陵前を通り
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神籠石
神籠石(地元では、ちご石と呼ばれています)のいわれについて古書に忍阪の集落
の中央に「楯の奥」(現・タツノ奥)というところあり、その北の「矢垣内」(現・屋垣内)に
神籠石という大きな建石がある、と記され、神武東征の時、天皇がこの地にいた八十
建(やそたける)を討つとき、この石に隠れ石垣をめぐらし矢を持ち楯とした大石という
伝説を持っています。「楯の奥」「矢垣内」という小字名も、そのあたりから、きているの
かも知れません。昔は素手で正面からこの巨石にのぼり、一畳敷きの上で大の字に
なれば一人前の証とされていたという伝承を持っています。(上の火の見やぐらは昭和
35年ごろ、生根神社より移設された。)
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石位寺
石位寺の山号は「高円山」。「こうえんざん」と読みます。今は無住となっており、いず
れの宗派にも属さず、区が管理しています。
現在の堂宇が建てられる昭和53年までの本堂は薬師堂とも呼ばれ、この薬師堂は
元禄2年(1689年)12月、領主の関係があった奈良奉行の大岡忠高が、資金を助力し
て建立されています。その当時の薬師堂は、當麻寺と同じ造りであったとされ、「西の
當麻寺、東の位寺」と呼ばれていたと伝わっています。
また、「石造薬師三尊像」の他に地蔵菩薩、観音菩薩、千手観音、四天王、木造十二
神将が薬師堂にあったと記されています。その後大正6年に、薬師三尊像以外の仏像
は、長野県若穂保科の清水寺(せいすいじ)に渡っています。
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天王山古墳
巨大横穴式石室、家型石棺、元天皇陵と三拍子揃ったこの古墳は桜井市倉橋字赤坂に
ある1辺約50m、高さ9mの大型方墳です。(石室の中はほんの僅かしか光が入ってこない
ので懐中電灯は必携です)
全長15mの横穴式石室は古くから盗掘され開口しています。ただ開口部は土砂が入り
込み、しゃがみ込んでやっと入れる感じですが、真っ暗な羨道の緩やかな斜面を約8m
ほど入ると徐々に広くなり玄室に到着します。長さ6.4m、幅3m、高さ4.2mの巨大な玄
室の中央部には、大きな家型石棺が横たわっています。まさに6世紀末の世界がここ
にあります!!正式な発掘調査は実施されていない為、出土遺物等は不明ですが、石
室の特徴から6世紀末~7世紀初めにつくられたと考えられています。明治年間(明治
22年まで?)までこの古墳は崇峻天皇倉梯岡上陵とされており、築造時期及び倉橋地
区で天皇陵に相応しい規模の古墳は、この赤坂天王山古墳をおいて他になく、研究者
の間では真の崇峻天皇陵ではないかという考えが有力です。巨大横穴式石室、家型石
棺、元天皇陵と三拍子揃った横穴式石室を語るうえでは外せない古墳です。
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此の続きは、
1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿しました。 
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-02-06
続きは、倉橋溜池~
倉橋溜池
倉橋溜池は忍阪の石位寺から南の方角に歩いて約1キロ(約20分)の所にあります。
(石位寺からも倉橋溜池の堤がよく見えます)。県内では高山溜池、白川溜池、斑鳩
溜池とともに四大溜池の一つで池としての灌漑面積は県下最大です。
昭和10年頃(1935年)関係町村の有志により干ばつ対策として発案された農業用た
め池ですが戦争等の影響もあり18年の歳月を要して昭和32年(1957年)に完成して
います。
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倉梯柴垣の宮伝承地
倉梯柴垣宮は、第32代崇峻天皇が営んだ宮です。記紀には、崇峻天皇の時、かねて
より仏教の礼拝などをめぐる蘇我氏と物部氏との対立がついに戦となり、物部守屋が
戦死して廃仏派の物部氏が敗れ、没落した丁未の乱(物部守屋の変)といわれる事件
が記されています。後に聖徳太子となる厩戸皇子も崇仏派の蘇我馬子の側につき戦に
加わったとされていますが、この事件の後、仏教は我が国に厚く受け入れられるように
なり、寺院の建立も盛んに行われるようになりました。また、この結果、蘇我氏が大きな
権力を得ることとなり、後に崇峻天皇が暗殺される要因になったとされています。
聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女の実弟に穴穂部皇子がいる。聖
徳太子の叔父にあたる皇子である。この皇子は、血気盛んで武人的な性格の男だった
ようだ。盛んに自分が皇位継承者であると自薦して回っていた。その武人的な性格に
共鳴したのか、物部守屋はこの皇子をバックアップすることに決めた。しかし、そうした
性格は天皇としてふさわしくないと考えたのであろう。蘇我氏の血を引く皇子なのに、蘇
我馬子は彼の皇位継承を妨げる側に回った。皇位継承争いを解決するため、蘇我馬子
は果敢な行動に出た。敏達天皇の皇后として隠然たる勢力を保持していた堅塩姫と結
託して、まず穴穂部皇子を殺害してしまった。そして、用明天皇の喪が明けるのを待っ
て、諸皇子と諸豪族を糾合して、河内の阿刀に退いていた物部守屋を襲撃し、物部本
宗家を滅亡に追いやってしまった。聖徳太子がこの戦闘に参加し、味方の形勢が不利
なのを見て、四天王の加護を求めたという有名な話が『日本書紀』に記載されている。
このとき皇子は白膠木(ぬりで)を切り取ると急いで四天王像を作り、それを髪に縛り付
けて味方の勝利を祈願した。後にこのときの加護に報いるため、聖徳太子は四天王寺
を建立したという。だが、この話も後に発生した太子信仰から、仏家の手によって創作
された説話であるとされている。物部一族を滅ぼした後、蘇我馬子と堅塩姫が次期天皇
として擁立したのは、穴穂部皇子の弟の泊瀬部(はつせべ)皇子である。泊瀬部皇子は
587年8月2日、第32代崇峻天皇として即位し、倉梯柴垣宮を宮居と定めた。現在、桜
井市倉橋にある崇峻天皇陵の手前左手に民家のような「金福寺」という寺がある。その
寺が宮跡であると伝えられている。
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崇峻天皇陵
第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵(くらはしのおかもへのみささぎ)は倉橋のバス停から南に
下った倉橋川沿いにあります。崇峻天皇は欽明天皇の第12子で母は蘇我稲目の女、小姉
君(おあねのきみ)で日本書紀によると蘇我馬子に擁立され倉橋に宮殿を置き政務をとって
いましたが即位して5年後の崇峻5年10月(592年)天皇は献上されたイノシシを指さして「い
ずれこの猪の首を斬るように憎いと思う人を切りたいものだ」と側近に漏らしたが馬子は悪い
人とは自分のことではないかと恐れ部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を差し向け
暗殺をはかり、その日のうちに「倉橋岡陵」に葬ったと言われています。
一般に延喜式では陵墓の兆域と陵戸が書かれていますがこの崇峻陵に関しては無く特異な
例になっていますが、これは天皇暗殺と即日埋葬とからこうなったと理解されています。
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聖林寺へ向かう
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聖林寺(しょうりんじ)
多武峰(とうのみね)街道の入り口にあたる小高い丘陵上にあるのが国宝十一面観音で知ら
れる聖林寺(しょうりんじ)です。藤原鎌足の長子定慧(じょうえ)の創建と伝えられています。
その後再三兵火に合いましたが、鎌倉時代に三輪山の慶円(きょうえん)上人、玄心和上に
よって再興され、江戸時代には文春和尚によって本尊の子安地蔵菩薩が本堂として祀られ
現在に至っています。この子安地蔵は丈六の石仏としては大和第一の大きさで安産と子授け
の地蔵として信仰を集めていますが、このお寺の最大の見所は国宝の十一面観音菩薩です。
元は大神(おおみわ)神社の神宮寺の大御輪寺の本尊だったのですが明治初年の神仏分離
令により廃仏毀釈運動が起こり起こり放出されこの寺が受け入れたものです。その後1891年
11月にこの寺を訪れた宮内庁嘱託として来朝中の米人フエノロサに激賞されて以来その芸術
的価値が見直されるようになったもので、その美しい姿は多くの人々を魅了してきました。高さ
約2m、奈良時代の乾漆像中でも最も形態の整った優品で昭和26年に国宝に指定されていま
す。境内から見る大和平野の眺望も見どころのひとつです。
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西内酒造
談山神社の麓、多武峰街道沿いで明治初年より「お客様に喜ばれ愛するお酒づくり」をモッ
トーに酒造りをされているのが「清酒談山」で知られる「西内酒造」。小さな蔵で真面目に醸
す、知る人ぞ知るこだわりの蔵元です。銘酒は良い水から生まれます。「敷地内に湧き出る
とっておきの清水を使える事は酒屋にとって幸せなことです」と話されるのは五代目主人の
西内康雄さん。そして今回「西内酒造」で人気の「貴醸酒」と「卑弥呼の里」の2品が「大和さ
くらいブランド」に選ばれました。
手の掛かる「貴醸酒」は全国的にも珍しく県内でも「西内酒造」のみ。貴醸酒はシオリ法とい
われる製法で、仕込み水の代わりに吟味された清酒を使用し醸造、ルーツは「御酒」で、昔
は宮中の儀式に使われていたと伝えられています。原料米に奈良県産キヌヒカリを使用、
味わいはまろやかで、とろりとした黄金色で甘口の美味しいお酒で後味はすっきりしていま
す。同じく選ばれたのは古代米酒「卑弥呼の里」。桜井にふさわしいお酒を作りたいとの思い
から、黒米を使用しこれぞ桜井という美しい桜色のお酒に仕上げられています。華やかで透
明感のある「卑弥呼の里」という名にふさわしい品のあるお酒で女性にもお勧めです。
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談山神社一の鳥居
簡素で何らの装飾もない。しかも正確に、その石組みの重量感は堂々とした姿に原始
のごとき想像力が味わえる。ここから昔の面影を残す街道が南へと続いている。
この鳥居は享保9年(1724年)の制作で。石材は下村の南大谷から掘り出した。(榊原
文書)鳥居上の銅額は貞明皇后(大正天皇皇后)の父、九条道孝氏の筆になる。高さ
約8.5m、長さ約11.5mですが、西側の端が火災で(昭和23年頃)欠けてしまった。
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桜井駅・一週三善
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五位堂駅・二上山
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